ニコライ・リムスキー=コルサコフの生涯
ノヴゴロド近隣のティフヴィンに軍人貴族の家庭に生まれ、
幼児期より楽才を顕すが、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学、
ロシア海軍に進んで艦隊による海外遠征も体験した。
1859年からピアノを始め、1861年にバラキレフと出会い
ようやく真剣に作曲に打ち込むようになる。
バラキレフはリムスキー=コルサコフが航海演習のない時に
作曲の指導をして励ましてくれた。
バラキレフとの出会いによって、
後の『五人組』の同人となる他の作曲家とも面識を得た。
『交響曲第1番』(1861年〜1865年)は海軍在籍中に完成、
1865年の初演後、好評を博して
『ロシア人による前代未聞の交響曲』と呼ばれたが、
1850年にアントン・ルービンシュタインの前例があるので、
その評価は適切でないとも。
1873年に軍籍離脱するまでに、
管弦楽曲『サトコ』の初稿(1867年)と歌劇《プスコフの娘》(1872年)を完成、
初期作品のうち以上3曲は後年になって改訂された。
1871年、それまで音楽や作曲については
独学や『五人組』内での集団学習だけだったにも関わらず、
ペテルブルク音楽院から作曲と管弦楽法の教授に任命される。
その翌年にナジェージダ・プルゴリト
(Nadezhda Purgol’d, 1848年〜1919年)と結婚。
音楽院での最初の数年間は『五人組』時代の知識不足を埋め合わせる為に、
和声法や対位法について根気強く勉強し続けた。
1883年から1894年まで、宗務局、宮廷礼拝堂に於いて
バラキレフの助手となり、
ロシア正教の奉神礼、典礼音楽について研究。
指揮者としても活動し、豪商ミトロファン・ベリャーエフの後援する
『ロシア交響楽演奏協会』を指導した他、外国でも演奏活動を行なった。
リムスキー=コルサコフは貴族の出自ではあったが、
ロシア帝国の近代化の立ち遅れに批判的で、
学生の革命運動にも同情的であった。
1905年に政府批判を行なった為、
ペテルブルク音楽院の院長職、及び教授職を解雇されるが、
これが口火となり、彼を慕う多くの同僚によって、
相次いで辞職騒ぎが引き起こされ、
結果的にリムスキー=コルサコフは復職することとなった。
しかし、政府当局との軋轢はなおも続き、
遺作となった歌劇『金鶏 Le Coq d’Or』(1906年〜1907年)は
反体制的で、帝政の転覆を図るものと看做され、
作曲者の死後の1909年まで初演が遅らせられた。
リムスキー=コルサコフは最晩年に狭心症を患い1908年にリューベンスクにて他界、
サンクトペテルブルクはアレクサンドル・ネフスキー大修道院の
ティフヴィン墓地に埋葬された。
ナジェージダ未亡人は余生を亡夫の遺産の管理に捧げた。
リムスキー=コルサコフは7人の子を儲けた。
そのうち、1884年生まれの第5子ナジェージダは、
1908年にユダヤ系の作曲家マクシミリアン・シテインベルクと結婚しており、
当時リムスキー=コルサコフに作曲の個人指導を受けていた
ストラヴィンスキーは管弦楽曲『花火』作品4を、
二人の結婚記念に捧げている。
第3子アンドレイ(1878年〜1940年)は音楽史家・音楽学者で、
亡父に関して多くの著作を残した。
甥ゲオルギイ(1901年〜1965年)も作曲家で、
当初は微分音に興味があり、
後にフィルム・シンセサイザーの開発に取り組んだ。
私の研鑽生活は今日も続きます。
今日も一つお利口さんになりましたとさ。
めでたし、めでたし!!!
裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:01/19 15:14 最終更新日:01/19 15:14
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