とっち〜(Totti+81)さん
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2007年05月05日 18時48分56秒
そういういきさつだったのですか。そうすると、NHKの『現代の音楽』で紹介してたのは、その後しばらくしてからですね。
その時は自動ピアノしか紹介がなくて(記憶では)、短いのでかなりの曲数を放送したと思います。若い番号の曲には別段驚かなかったけど、曲番が上がるに連れて、これはすごい、と。リミッターが外れてる。
SQや管弦楽曲もそんなに良いんですか。私の好みもあるけど、聞き方にも問題ありそうですね。当時の先鋭なロックを聞いてる耳には、あの自動ピアノは馴染むんですよ。だから yoc さんなんか驚喜してブログに書きますよ、最近 Muse にはいらしてないようですが(笑)。
ナンカロウがケージと同い年とは気付きませんでした。もっと上と感じてましたから。
アメリカも作曲家の宝庫なんですね。
2007年05月05日 21時02分11秒
自動ピアノは短いのでFM放送の番組で時間が余ったときによく2・3分放送しますね。でも最近はSQや管弦楽の演奏が多いです。この人は普通の楽器による作曲も大家だったようです。
どうも僕は自動ピアノは人間の技術とエネルギーを100%使っていないので電子音楽に入れちゃいますね。普通に楽譜が書かれていないのでどうしてもアナリーゼが手薄になっちゃいます。
アメリカはこういう歴史的な巨匠作曲家を全く大切にしてませんね。彼らの晩年の委嘱はみなヨーロッパからのものでした。あそこは何でもかんでも民間による経済弱肉強食の世界なので、こういう最重要の前衛作曲家はみなヨーロッパに流れてしまうのですね。残るはドクター・プロフェッサーのどうしようもない作曲家ばかりですね。それも年俸億円単位で使っていますね。アメリカの教育は何かが間違っている。アメリカのもっとも誇るケージやナンカルロウは死ぬまで浮浪者・乞食扱いでしたね。なんかおかしい!
2007年05月06日 17時29分49秒
ナンカロウの自動ピアノってそんなに流れてるんですか?ドイツの放送局の話ですよね?
長らくFMもマトモに聴いてないので、今のNHKにどんな番組があるのかさえ知りません。クラシックは減ってるかもしれません。
「人間の技術とエネルギーを100%使っていない」ってのは、う〜ん、演奏者側としては確かにそうですね。
その「アナリーゼ」ってやつが、できない、やらないのが素人です(大汗;)。楽譜見ませんし、現代曲のを見ても無理ですね。
その時聴いた、その演奏しかないんですよ。印象になってしまいます。
図形楽譜の方がまだマシとは思います。構成や考え方が掴めることも無いわけではないので。見てて面白いですしね。
ハウベンストック・ラマティの『見る楽譜』なんて、学生の時一般教養のレポートのネタに使いましたから。併せて、確かクセナキスの『ピソプラクタ』だったかのグラフィックスも使いました。直線群が減衰するサインカーブを描くようなヤツ。
音楽ではなく、人間の創造活動全般に関する講義だったのですけどね。つまらなかったので講座名を忘れてますが。最初、アートを素材にしようと思ったのですけど、当時としては、図形楽譜の方がインパクトが強かったんです。理系学生はアートは見てても、図形楽譜は見てなかったから(笑)。例外はあったでしょうけどね。
アメリカって極端ですね。いい面も多いけど、なんだこれは!も多い。
ジョン・ケージの研究者か助手(?)だったかの著したインタビュー本に、ケージは死の直前まで事務仕事のアルバイトをしていたとあって、飛び上がる程驚きました。
仕事ぶりはきちんとしていて大変丁寧で神経の行き届いたものだったそうです。だから彼の偶然性も丁寧な仕事だったのではないかと思います。
しかし、ケージ程になると、金持ちではないかもしれないけど、安心して作曲できる程度のお金は得ているものと思ってました。アメリカには、芸術家をサポートする資産家とか団体とかいっぱいあるのではないのか?とも思いました。
その部分を読んだ時、泣きたくなりましたよ。アメリカの誇りに対してなんて扱いをするんだ!と。人類の誇りかもしれないのに。
日本に『京都賞』ってあるんですよ。ご存知かなぁ? 世界的な知名度や評価は知りません。僕はあんまし賞には興味ない人間だったのですが、著名な創作家たちが受賞しているようなので、調べたことがあります。
今参照してみると、先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門とがあって、少なくとも名前を知ってる受賞者は世界遺産クラスです(笑)。
で、受賞作曲家は以下の通りです。
1985年 オリヴィエ・メシアン
1989年 ジョン・ケージ
1993年 ヴィトルト・ルトスワフスキ
1997年 イアニス・クセナキス
2001年 ジェルジ・リゲティ
演奏家だけど、2005年 ニコラウス・アーノンクールが受賞してます。
初めの頃は、これでは受賞者が逆に賞の権威を高めてるんじゃないかと思ってたので、関心は薄かったんですけど、それなりに人生経験を積んでくると(笑)、ケージとかクセナキスとかリゲティにやっといてくれて良かったなぁ、と思ったんです。
賞金は5000万円ですからね。ケージのこったから欲も無く、てっきと〜に使っちゃったんだと思うんだけど、ちょっとは作曲に余裕ができたと思います。
京都賞授賞式の時、ケージがスーツ(燕尾服?)を拒否して、羽織袴を提案したらやっとOKしたとか、ケージらしいエピソードがあって笑えるんですけど。
ともかく、日本人がというか日本がケージを高く顕彰したのは、誇りとして良いと思います。それ以上に5000万円をやったのが誇れます。1億なら尚良いけど(笑)。1億程度で一人のケージなど絶対に作れませんからね。
クセナキスに対してもそうですね。この頃、パトロンかなにかを失ったのではないかな?
リゲティもあまり生活が安定してそうなイメージはありませんね。
メシアンとかルトスワフスキは、事実は知りませんけど、晩年は生活にはアルバイトする程には(苦笑)困ってなかったように思うんです。違うのかな?
ケージなんか早くからヨーロッパでも、国際的にも認められていて、創作力も死ぬまで衰えなかったし、ナンカロウにしても人間国宝級だと思うんですけど、そういう制度がないんですねぇ。アメリカには桁違いの大金持ちが大勢いるのに、何の支援もしないのですかね。基金を作って雇うとか、委嘱するとかすぐできそうですけど。
作曲の教授職が億単位の給料ですか。CD売って稼げよと皮肉の一つも言いたくなりますね(iTunes でも)。
ケージがPh.Dなんて取ったらお笑いですけど、無試験でやっちゃったら良いのにとも思いますね。本人が嫌がるでしょうが。
特に、911以降、アメリカはおかしくなりましたね。ドル防衛と、石油/エネルギー確保に走ってます。その点、ヨーロッパは老獪ですね。ユーロが力をつけてきているのには驚きます。熾烈な戦いですよ。そこにロシアと中国が絡んでいる。
Muse であまり政治的なことを書くとクレームがつくかもしれないのでやめときますが(笑)。
私も社会人を長く続けて保守的になってますけど、イデオロギー以前に、おかしいことはおかしいと誰かが言わなくちゃダメだと思いますね。
組織や集団の大小に関わらず、利害関係が隠されすぎています。ステーク・ホルダーを白日の下にさらけ出さないと、物事は見えてきませんが、妙にねじれた力構造になっていますね。
今の日本は、かなりの程度この問題が支配していると思っています。
2007年05月07日 01時24分49秒
ナンカルロウはしょっちゅうかかっています。アンコールでも多いですね。
楽譜とは縦軸に音の高さ・横軸に時間を取ったグラフと思えば読めるでしょう。もちろんその他に音色や強弱・長さなどもあるのですがとにかくグラフです。分析とは文字如しそれを各成分・パラメーターに分けることです。また楽譜無しでも分析は出来ます。聴音分析と言って耳で聞くだけでなんか言う方法です。ちょっと耳が良くないとダメですが、言うのはないでもいいです。でもできるだけ客観的で科学的に言うのです。高い音とか強い音・柔らかい音・早いテンポ・リズム・鋭い音色とかです。
アメリカではケージなんかやる人は全くいないのですよ。キチガイ乞食だと現代音楽の専門家も思っていますね。現代音楽には絶対企業などのスポンサーもつきません。オペラなどのクラシックだけです。アメリカにはそもそも現代音楽祭がないでしょう?存在しないのです。まあ死ぬ直前に京都賞貰ってもね、使う前に死ぬだけだから。意味ないですがね。メシアンやリゲティは作曲科の教授だったのでその年金が恩給という形で凄く貰っていたはずです。
トリスタン・ミラーユだったかコロンビア大学の教授職で1億5千万とか言ってましたね。それくらいの音楽とはとても思えませんが!ケージはキノコのphDは持ってたでしょう。
政治的にはアメリカは弱肉強食でしょう。ケージは政治は金持ちを守るためにのみある、と断定してましたね。今は余計なイラクに足を取られてどうしようもないのではないのですか。今の大統領は自分の一族の石油会社を更に儲けさせる為にだけ戦争をしたのでしょう。それ以外全然意味はないですよあの戦争は。
2007年05月07日 05時54分31秒
楽譜ってのは確かにそうですね。おっしゃる意味は良く分かります。
僕の場合、70年前後だったかな? クセナキスの「ピソプラクタ」や「メタスタシス」の音高と時間のグラフを見て、「あっ」と驚きましたね。こんなことをやっていいのか!と(笑)。視覚的に実に分かりやすい。構造とか構成も一目瞭然。
90年代以降はPCの音楽ソフトが発達したので、若い世代にはノーテーションとして当たり前でしょうが、あの時はインパクトが強かった。
クセナキスがそれをわざわざ五線譜に翻訳してると知って、のけぞりましたが。わざわざ分かりにくくしている(笑)。実際、どっちかの曲の五線譜の楽譜を見たことがあるんですけど、あのパートは弦のグリッサンドだけだから意味あるのか、と。しかも、なんと小節線まである!意味ねぇだろ!(笑)。クセナキスの五線譜とグラフとは、物理的には厳密には対応してないと思うんですけどね。わずかに膨らむか凹むか、ちょっとズレてるはずですね。
クセナキスのグラフ見てから楽譜の見方が変わりましたね。それまでも曲を聴きながら大雑把に追っていくことはしてましたけど、五線譜の音符の列がグラフに見えてきた(笑)。構造とか構成が見やすくなりました。自己流ですけど。
5.7ブログのシャリーノの曲を聴きながら、頭の中ではグラフが形成されてました。周波数、適当ですが(笑)。時々説明の文字と矢印が入ったりもしましたけど(笑)。小爆発図形とかもあったかな? とにかく説明用の記号の多い曲でした。その辺、理科系なんです。
ブソッティの冒頭なんかはぐちゃぐちゃで描きにくかったですけど。12色の針金がグチャグチャっと形成される感じ。
僕できないのは、ある程度音数の多い五線譜を見て聴覚映像として音を聞き取ったり、実際の音から五線譜に落としたりすることですね。
一応、子供のころ某擦弦楽器(笑)を数年間習わされたり、10代から某撥弦楽器(笑)を独学ですが10年ぐらいやったりしてたので、五線譜にも少しは馴染んでるんです。でも実際に弾かないと音が取れないこと多かったんです。一つはそこなんですね。
でも、バリバリの現音作曲家のKan-no さんが言ってくれると説得力あるし、そういうやり方でも良いんだと自信が持てますね。
ちょっと時間が遅くなったので、ケージの件とかは明日にします。
2007年05月08日 03時03分47秒
Xenakisは無理に音を出すために5線の翻訳してますので必ずずれますが、それを更にオケで音を出すのでまたまたずれるのでかまわないのですよ。
音符で記載できない時は楽譜はずっとグラフィックになります。Busottiの場合は絵描きですから、演奏のたびに違った音が出て来て即興性の強い音楽です。だから論理的に本当のグラフとは違います。
小節線はないと指揮ができなくなり、どうしても合わせる為に邪魔でも必要です。一種の目盛りなのですね。
5線に落とすのは音楽学校などで訓練しないと難しくて大変でしょう。
僕も本質的には理科系の頭で、音楽の道はほんとは待ちがった方向なのですが、ここまで来てしたったので死ぬまでこのまま行くと思います。今度生まれ変わったら物理学あたりやりたいですね。
2007年05月08日 06時15分48秒
Kan-no さん、やっぱり理科系ですよね。用語や論理にそれを感じます。
物理学か、良いですね。基礎的な方向ですね。数学なんかも日本人に優れた研究者が多いでしょう。大事にしないと駄目な学問です。
小泉前首相も、ノーベル賞やフィールズ賞のアメリカ枠(笑)をもっと日本によこせと、子ブッシュ大統領に要求すれば良かったのにと思いました。できたと思いますよ。日本が米国債を買って、アメリカ経済を破綻から救ってるんですからね。その程度のことは協力してもらわないと(笑)。推薦人にアピールすれば確率上がるんじゃないですか。CIA使ってなんとでもしますよ(笑)。日本にも突出して優秀な研究者は多いですしね。
僕もかなり間違った方向にきてますよ(笑)。今の仕事は理系といっても中途半端だし、実質的に理系とは言えませんね。好きな分野とも違うんですよ。
僕は逆に、生まれ変わったら表現する方向に行きたいですね。文学か美術ですね。両方でもいいけど、言葉の方が好きですね。
古いタイプの20世紀の画家だけど、マックス・エルンストが好きなんですよ。ボン大学の哲学を出た、あの時代に多かったように独学だけど、巨大な芸術家です。他にももっと新しい人で好きなのはいるけど、エルンストはローティーンの頃から好きだったので格別なんです。
彼、コラージュの創始者で、「百頭女」とか「慈善週間」とか「カルメロ修道会に入ろうとしたある少女の夢」のように、奇妙な詩と幻視的なコラージュとを組み合わせた、長大な連作群を作っているでしょう。あれ以降の他の作家たちのコラージュ作品が、すべて愚作に見えるほどの作品です。
エルンストへのオマージュとして、同じ形式のを作ってみたいんですよ。
まじめに考えると頭を抱えますけどね(笑)。どうやって、同じだけど違うことをしようかと。冗談で誤魔化すには相手が巨大すぎるし(笑)。
ま、これは生きてるうちに作るつもりですけどね。自分のサイト作って晒しておきたいですね。
2007年05月08日 23時52分16秒
今日はいまボン大学の学生オケを振ってきました。疲れました。
作曲って理系的な頭がないとできませんね。感情的には曲は書けません。あくまで論理で書きます。
アメリカは研究費とその研究機関の広さ多様さが違うでしょう。あれはどんなに考えても狭い日本じゃ無理ですね。アメリカ的な自由とっぴな発想を日本の大学は育てることはできないでしょう。
マックス・エルンストの作品はデユッセルドルフの美術館に代表作がまとめてあって昔見に行ったことがありますね。
2007年05月09日 07時16分01秒
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初めまし
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跡帳)
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第4回
日本クラ
シック音
楽祭・・・
只今11月24日(日曜日)の・・・(Mariaさん)
#1
妙にゴロの良い、軽妙な響きの名前を持つこの作曲家のことを、僕は長いこと生粋のアメリカ人だと思い込んでいた。アメリカに時々発生する、他人や外界のことなど全く気にせず、世間と隔絶して自己の世界を構築し続ける、そうした隠棲芸術家の一人だと思っていた。
実際の彼はメキシコへの亡命者だ。スペイン内戦に参加し米国政府から帰国を拒否されたためだ。崑崙の山奥に住む仙人ではなく、極めて行動的な人物だったわけだ。このことを知って軽いショックを覚えた。
#2
ナンカロウは自動ピアノ(ピアノ・プレイヤ)のための曲を書き続けた作曲家だ。いや、書くのではなく、自動演奏の要である紙ロールに穴をあけ続けたと言うべきか。学生の僕は、マッド・コンポーザーの映画が作れそうな光景を想像したものだった。巨大な山脈を仰ぎ見る山小屋に独り籠って、日々ロール紙に数万個の孔をあけ続ける作曲家。
実際にはナンカロウは、人間が演奏する楽器のための曲も書いていた。またも軽いショックだ。歳月が思い込みを固化させたのだろう。
#3
去年のことだが、いつもは行かないCDショップの棚にコンロン・ナンカロウの名を見つけ、昔聴いた自動ピアノの狂ったような響きを憶い出した。ナクソスのディスクには『アメリカン・クラシックス』というシリーズ名が印刷されていた。僕はほとんど考えずに、他に選んだ数枚とともにその1枚を買った。
部屋で聴いてみると、自動ピアノが入っているのはただの1曲だった。それも人間の弾くバイオリンとの協奏だ。ツイてないと思った。
#4
最初の曲は1943年作の『小オーケストラのための作品第1番』。同じタイトルの2番が最後に入っている。だが、そちらは40年以上経ってからの作品だ。
表現主義的な不安な響きに始まる第1番では、様々な要素が不連続に次々と生成していく。
20世紀初頭のヨーロッパにありそうな音楽に、古いジャズバンドのリズムや響きが時々侵入してくる。ベースのピチカートや金管の使い方にもそれを感じる。50年代の映画やTVドラマに使ってもおかしくない部分もあるほど、しばしばポピュラーミュージックの香りが立ち上る。しかしそれらは常に裏切られる。波のように変化するテンポを軸に、何もかもが急激な変化を続ける。しかし一定の彩りはある。
様々な楽器が異なるテンポとリズムで勝手に自分のパートを弾いていく。かと思うと突然協調し始め、テンポも大きく変わる。最後は唐突で華々しい金管の合奏で、やはり唐突に終わる。
アイヴズを始めて聴いた時のように、20世紀前半のアメリカ的な印象が強い曲だ。
『バイオリンと自動ピアノのためのトッカータ』では、いかにもナンカロウらしい自動ピアノの音が、高速に切れ目なく続く。ピアノは音色と響きが極めて特殊で、むしろチェンバロに似ている。家の外から超人ピアニストの練習振りを眺めている印象さえある。そこに負けじとスタジオのバイオリンが絡んでいく。大変なリズム感覚を持った曲だ。ここではまだ一般的な意味でのリズムが支配している。1’38"とごく短い曲だ。ナンカロウには短い曲が多い。
1935年の作品だが、非常に早い時期にナンカロウが自己の手法を確立していたことが分かる。当時のバイオリニストにはこの曲は苦行だったろうが、マイア・ウーは嬉々として弾いている。
同じ1935年の『プレリュードとブルース』は人間のピアニストが弾いている。残念だが原型ではなく、シェリル・セルツァーとジョエル・ザックスによる編曲版だ。弾いているのも彼らである。
時々ラグタイムの奏法が聴こえるなど、アメリカの伝統的な通俗音楽の響きが侵入している。意図なのか趣味なのかよく分からないが、アメリカ的な異物を侵入させるのは耳を裏切る効果はある。
『スタディ15番』イヴァール・ミカショフ(?)による4手のための変換。1950年代の作。
これも同じように聴けるピアノ曲だが、はるかに先鋭化している。35年には濃厚に残っていた、のんびりした、たゆたうような(しかし変化の激しい)感覚は既に消えている。
ナンカロウの曲を人間用のピアノで聴くと、リゲティのピアノのためのエチュードと似た響きが断続的に聴こえてくる。異なるリズムやテンポの並列が、似たような音響を生むのだろう。
『?タンゴ?』(最初の『?』はひっくり返っている)1984年。これは2手。
こうして、普通のピアノの音=人間の演奏で聴くと、ナンカロウは意外なほど斬新で清冽な響きがする。決して音数が多いだけではない。しかも複雑さに反して聴きやすい。最小のパターンの重なりが中程度のパターンを形成し、聴覚的な認識がしやすいのだろう。自動ピアノ曲にはビート感さえ覚える。
ナンカロウのピアノ曲は常に聴きやすい現代音楽だ。分析はできなくとも耳が受け入れやすい音楽だと言える。
『ピアノのためのソナチネ』1941。これもミカショフによる4手のための変換。
第1、3曲(楽章?)のリズムの重なりがナンカロウらしい。2楽章は、構成のアイデアが冒頭の曲のピアノ版のような印象。
『トリオ・ムーヴメント』1941。クラリネット、バスーン、ピアノ。
これも似ている。多様さは増しているが、その多くをピアノパートに依存している。それにしても律儀に終結する曲が多い。多くの曲は、唐突だが明快に終わる。
『弦楽四重奏曲1番』は1945年の作。静と動が頻繁に繰り返されるのは弦を使う場合の特徴かもしれない。ピアノ曲ほどに魅力はなく、とりたてて興味は惹かなかった。
最後は『小オーケストラのための作品第2番』1986年。
1番とは異なり情緒的な雰囲気はない。打楽器的に使われる金管、ピアノ、ベースが冒頭から目立つ曲だ。やがて木管も同音反復する。しかし突然テンポがゆっくりになり、うねるような旋律が浸食してきたりもする。様々な曲を貼り合わせたような印象だ。
だが、1番から40数年の時を隔て、書法が変わったはずなのに音色や響きの印象は大きくは変わらない。演奏家たちが同じせいばかりではなく、ナンカロウの音使いの本質を示しているように思える。
#5
このディスクには純粋なものは入ってないが、ナンカロウの自動ピアノの曲には番号だけがついていて意味のあるタイトルはない。
番号が大きくなるにつれ、曲は複雑化し、早くなる。1秒間に発生する音数も爆発的に増えていく。おそらく五線譜に起こすと10段は軽く越えるだろう。
記憶の中のコンロン・ナンカロウの自動ピアノ曲では、縦横無尽に交錯するパッセージ群のあまりの早さと音数の多さに、耳で1音1音を分離するのは全く不可能になる。いや、部分的なマスや線としての分離さえ諦めざるをえないほどだ。ましてや人間には弾けるわけがない。演奏にはタコのような8手と、その先に生えた精密な80本の指がいるだろう。
多くの手が、指が、異なる速度で異常に速い音列を勝手に繰り出し、幾条もの鞭のように唸りながら飛んでいく。それでも基本的なリズムはあるのだ。等間隔な音の列さえ存在する。むしろポップスにおけるビート感があると言った方が適切かもしれない。
#6
僕は、細かな穴のびっしりとあいた、弱り切ったテクスチャのような紙を想像し、1回『演奏』するとボロボロになるんじゃないか、いや『作曲』中に紙が破れるのではないかと、いらぬ心配をしたものだった。
FM放送から流れるナンカロウの曲が、複雑さと速さの頂点に達する頃、僕は思いついて、ステレオに加えて3台のラジオを自分の回りに配し、全く同じ放送を、バランスに注意しながらボリュームを上げて聴いた。
頭がくらくらするような音響体験だった。脳の中をびっしりと、無数の大小様々な流星群が飛び回っている。トリップ状態だ。ただの自動ピアノが発する音の群れは既に音楽を越えていた。
70年代の終わり頃のことだったが、あの時の音響体験は今でも鮮明に覚えている。
#7
今思えば、コンロン・ナンカロウはデジタルとアナログの境界領域にいるような作曲法をとっていた。ロール紙は初期のコンピュータの記録媒体たる紙テープそのものである。眼に見えるサイズの孔は、リズムの視覚化に極めて適している。
十二平均率の権化たるピアノは離散的な音を発する、デジタル向けの機構を持っている。アタックが強く、すぐに減衰する音は、パーカッションにも向いている。
ナンカロウはこれらと三位一体となってユニークな音世界を開拓していったのだろう。
コンロン・ナンカロウは、リズムの作家だ。そのリズムは僕の聴くところ、アメリカのポピュラーミュージックの源流である、アフロアメリカンなビート感覚を残している。ピアノ以外の楽器の使い方もその一つの現れのように思った。
彼の自動ピアノ音楽の聴き易さは、そこにも起因しているのではないだろうか。
【メモ】
ピアノプレイヤー(自動演奏ピアノ=自動ピアノ)
http://www.musical.jp/box/musicbox1/mb16.htm
NAXOS Amrican Classics - A Continuum Portrait Vol 5 - Nancarrow CD, Continuum / Nancarrow / Sachs / Seltzer
http://www.cduniverse.com/search/xx/music/pid/6871...
A Conlon Nancarrow Web Page:ここが面白そうだった。読んでないけれど。(^^;;
http://www.kylegann.com/index2.html
僕が聴いていた頃とカタカナ表記が異なる音楽家は多い。彼もその一人で、当時は『ナンカロー』と表記していた。Google すると『ナンカロウ』の方が2桁多く、約1100件だった。一方、"Conlon Nancarrow" では11万件に上る。
あれから四半世紀以上が経っても、日本では名前が知られていないようだ。
現代音楽 古楽 作曲家 ヴァイオリン(バイオリン) ピアノ