はかせさんのブログ(日記)〜クラシック音楽の総合コミュニティサイト Muse〜

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マスタークラス

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 マスタークラスというものがある。一流の演奏家が、演奏家の卵とか音楽大学の学生、若い卒業生を公開の場でレッスンするものだ。
 なぜ「マスタークラス」というのだろう?大学院修士課程のことをマスターコースとよび、卒業生に与えられる称号(修士)が英語ではマスターだからだろうか? 4年制の学部を卒業すると学士:バチェラーだし、大学院博士課程を修了すると博士:ドクターだ。修士課程の大学院生を教えるクラスだから?あるいは大学院を卒業して修士号を持つ人を教えるクラスだから?

 NHKの教育番組を中心に、ピアノなどの演奏のマスタークラスの様子が時々放送される。ロンドンにいたころ、チェロのトルトゥリエのマスタークラスをBBCでやっていた。いつも一生懸命見るのだが、ほとんど失望する。また、公開されたマスタークラスを見ることもあるのだが、これも期待が裏切られることがほとんどだ。先生の言うことを生徒が理解できていない、会話が成り立たない、生徒は進歩しない、というケースがほとんどだ。
 最近では生徒が進歩していくことを期待せず、先生がどういう戦略で演奏しているかの種明かしに期待して見るようになった。生徒に「こういうことに気をつけなさい」というのは「私はこういうことに気をつけている」というのと同じだろう。

 テレビ、公開を含めて、多くの場合、生徒のレベルが低すぎる。先生は音楽の設計について話しているのに、生徒はこれまでの生涯で音楽の設計など考えたこともないので、何を言われているのかわからない、というケースが日本人の生徒の場合、非常に多い。
 NHKの教育テレビで放映された番組は、ほとんどそうだった。オピッツとかクリーンとかディスカウは非常に良いことを言っているのだが、生徒(音楽大学の学生だったり卒業生だったり)には全く通じていない。弦楽器の場合、私から見ても間違ったフォームの生徒がほとんどで、もうちょっとましな生徒を集めてもらわないと、レッスンが成り立たない。主催者側でもっと厳しい基準で学生を選ばないと、アインシュタインが小学生に教えるクラスになる。もったいなくて涙が出る。

 最近見たピリシュのマスタークラスの場合、先生の方にも問題が多かった。言うことが抽象的すぎるのだ。彼女の得意とするモーツァルトだったが、あれでは教えられない。やはり教育に適した人を先生に選ぶ必要がある。

 教育というのは難しい。初等教育には初等教育の難しさがあるが、高等教育もまた難しい。自分の専門分野で大学院生に教えていても、うまく教育が成立するのはいろいろな条件が整っている必要がある。

 習う側が自分の中に具体的な問題点を見つけていて、それを質問してきたとき、その解決法を教える、というケースは比較的うまくいく。私も修業時代、分からないことが明確になった場合、それを教えてくれそうな人を探して教えを乞う、という方法で解決してきた。この場合、一度教われば、決して忘れることはない。しかし、後から思えば、こういう風に問題点を自分自身で明確にすることが出来た場合、しばらく考えると自分自身で解決できることが多く、習う利点は時間の節約にすぎない。

 教える側からは明確に見えている問題点に、習う側が気付いていない、というのが一番良くあるケースだが、こういう状況で教えるのは難しい。出来る人には見えることが、出来ない人には見えない。テレビで見るマスタークラスの状況はだいたいこれだ。この場合、生徒は「このおっさん、何を偉そうに俺の演奏にけちつけているんだろう?何言ってるのか全然分からない!」という心理になりやすく、心が閉ざされる。

 そこに具体的な問題があるということで、習う側、教える側の見解が一致しても、これを修正できるとは限らない。教える側が、その問題で苦労し克服した経験、あるいは、別の生徒で解決した経験があれば良いのだが、そうでない場合が多い。

 私は昔、チェロを弾く右手首が硬い、力が入っている、という問題を自覚していたし、多くの人にそれを指摘されていたが、「力を抜きなさい」という指示は全く意味をなさない。今も師事している東京の先生の90分の特訓を受けて、力を抜くための技法、戦略を教わり(忘れもしない1995年の一月)、その一度のレッスンだけで問題点は氷解した。こういう教育が成立するのは、むしろ珍しい事例だろう。

 チェロ ピアノ


日付:2007年08月23日

6件のコメント

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このブログ(日記)へのコメント

Shigeru Kan-no

ドイツ語でMeisterkursといいますが昔は良く出ました。ここでは夏になるとそういうのが無数にありますね。著名な演奏家や作曲家が学外の人達にするレッスンですが、有名な講師になるとレヴェルはとても高いです。大学で言ったら博士課程ぐらいにレヴェルのとこもあります。でも学位は付けませんが。音楽に学位を付けるとそれに安心してアメリカのPH.Dのように逆にレヴェルがどんどん下がるのですね。この世界はちょっとでも楽観するとそれが演奏にすぐ出て来る恐ろしい世界です。その代わりまだ大学に入る前の音楽家でも才能さえあればどんどん見てもらえますし。最後の公開演奏会にも出してもらえるし、挙げ句の果てはラジオ放送やTV放送されるときもあります。そんかわりどんなに学歴や学位・もしくはコンクール歴があっても肝心の現在の演奏がだめだとそれに参加すら出来ないときもあります。とにかくこの世界は今の実力だけで計られる浮き沈みの極端に激しい世界です。

2007年08月23日 17時50分21秒

はかせさん

かつて柄谷行人がマルクスをもじって「教える」ことも「暗闇での命がけの跳躍」に喩えていたように記憶します。「教える」ということには本質的にそういう部分があるのでしょう。

実はこの秋に一つ「マスタークラス」の通訳をやることになっています。翻訳もジャンプですから、二重の跳躍ですね。どうなることやら。

2007年08月24日 07時40分18秒

Shigeru Kan-no

Master・Classは時間が一週間とか限られていますからすべてを教える事は不可能ですね。大体受講する前から見てもらう人は暗譜して完成していないと間に合いませんね。レッスンは多少の修正を行うだけです。じゃないと終了コンサートにはとても間に合わないですね。其のつもりで受講生も準備するといいでしょう。

2007年08月24日 16時26分59秒

はかせ

takuya さん、教え、教わる、という関係が成り立つのは、かなりまれなのではないか、と思うようになりました。教わる方に、強い自己批判能力と、飢餓感があることが、絶対に必要で、なおかつ、思考回路に類似性がある二人でないとだめかと。

そういうわけで、マスタークラスが成功する可能性はかなり低いと思われますから、通訳も、気楽になさったらいかがでしょうか?

2007年08月24日 21時57分15秒

Shigeru Kan-no

まあ出て来る人はマスター・コースを受けなくとも一流になれますね。ただこれに補助する事は次の市長選挙などに有利になるもんだから、ラジオもTVも来てくれるし、欧州では良く行われますね。バレンボイムはイタリアでアバドらと指揮のコースに出ただけだそうです。ピアノはもともと先生にかまわず勝手にやっていたとか?

2007年08月24日 22時27分27秒

> 通訳も、気楽になさったらいかがでしょうか?

はい。ま、生徒さんは本人次第ですから分かりませんけれども、ぼく自身が色々学ぶことはできるのではないかなと思って楽しみにしている次第です。

2007年08月24日 22時57分57秒

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