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ただ弾いているだけ、音楽で何かやりたいことがあるわけでない、という演奏はだめだ。自分がそうなってはいけないと思うし、何かやりたいことがない曲を演奏することはしない。この曲はこういう曲であって、このように弾きたいという設計なしに弾きたくない。プロの演奏家であっても、ただ弾いているだけに感じられる演奏家は二度と聴かない。私が好きになる演奏家は、強い主張と確固たるコンセプトがある人だけだ。
一人で独奏しているときは問題ないのだが、二人以上で演奏する曲の場合、その主張、コンセプトが一致しないことがある。正解は一つとは限らないのだ。この場合、議論したり、いろいろテストしてみたりするのだが、うまく議論できないこともある。以前、今井信子の本で紹介したように、英語ならできても日本語だとうまく議論できないという感覚が私にもある。
プロ同士だと、主張も強いだろうから、ぶつかって大変なことになることも多いと想像するが、なかなかその衝突が表に出てくることはない。そのまれな例が、バーンスタインとグールドの間にあった見解の相違だ。ニューヨークフィルハーモニーの1962年のカーネギーホールでの演奏会における、ブラームスのピアノ協奏曲第1番ニ短調op.15の演奏に先立って、バーンスタインが聴衆に対して、自分はこの演奏に賛成してはいないことを明言したのだ。
この話は高校生の時、クラシック音楽マニアの同級生に聞かされていたのだが、実際にどんなことをしゃべったのかは知らなかった。ずいぶん経ってから、このスピーチも収録されたこのブラームスの協奏曲のCDを手に入れて聴いてみた。実際に聞いてみるとこのスピーチはとても興味深いものだ。
グールドに対する非難とか、自分の名誉を守るとかで、自分はこの演奏、この解釈に無関係だと言明した、と伝えられてきたが、そうではないと思う。どちらかというと、「私は思いつかなかったし、こういう演奏は二度と行われないと思うよ、みなさん、またとないチャンスだからしっかり聴いてね。普通の演奏とだいぶ違うからしっかり驚いてね。」とい感じだと思う。
演奏そのものも、最初、オーケストラが、その遅さになじんでいない感じがあるのだが、徐々にこのコンセプトの正しさに巻き込まれてくる感じだ。
このCDには訳もついているのだが、ちょっと気に入らないところもあるので私がざっと訳してみた。
英語国民の議論の能力、違う意見の持ち主との共存の仕方を見事に示してくれる例だと思う。バーンスタインのユーモア感覚も素晴らしい。この見解の不一致が、日本人の指揮者と日本人のピアニストの間に起きたとしたら、演奏会の前に決裂したと思うし、もし、こういうスピーチが行われるところまでこぎ着けたとしても、日本語ではこんなスピーチは難しいだろうと思う。
かっこ内がバーンスタインの言葉、あとは私の感想。
語り:バーンスタイン氏は何か聴衆に言うことがあるようです。ステージの下に降りてきました。
「心配しないで!グールド氏はここにいます。このスピーチが終わったらすぐに舞台に出てきます。」
グールドは当時、まだ公開のコンサートで弾いていたが、キャンセル魔だったのだ。聴衆はバーンスタイン氏がマイクを持って現れたことで、「ああ、またキャンセルか!」と感じるだろうから、バーンスタインはまず、そうではない、ということを言って安心させたかったのだ。
「私はコンサートの前にお話しする習慣はないのですが、ちょっと普通ではない状況がおきましたので、一言お話しした方が良いと考えたのです。」
「これから皆さんがお聴きになるのは、言ってみればかなりオーソドックスとは言えない演奏によるブラームスのニ短調ピアノ協奏曲です。この演奏はこれまでに私が聴いたことのあるどんな演奏とも違います。テンポは極端に遅いし、強弱も明らかに、ブラームスの指示から外れている箇所があります。」
「私はグールド氏の構想に完全に合意しているとは言えません。」「この状況は次の興味深い質問を生み出します、すなわち、私はこれを指揮することで何をしようとしているのか?」
つまり、バーンスタインはグールドの構想に則って演奏することにしたが自分は合意していない。バーンスタインには彼自身の構想があり、指揮者として、その構想に則って演奏することを続けてきた。それこそが芸術家として唯一、彼がやるべきことだった。それが、今回は自分が間違っていると判断する構想に則って演奏しようとしている。
「私はこれから演奏しようとしている、なぜなら、グールド氏は確かな、大変に真剣に芸術に向き合う芸術家だから、彼が真剣に考えたことは何であれ、私も真剣に受け取る必要があるからです。」
グールドが実現したいと主張する構想ははったりとかではなく、グールドほど確かなピアニストが真剣に楽譜を読んだ結果これこそが正しいという結論に達したものだから、これまでの伝統と合わないからという理由くらいで拒否すると大事なものを失う危険がある。
「彼の構想は充分に興味深いので、あなた方も聴いてみるべきなのです。」
「にもかかわらず、昔から繰り返されてきた疑問がまだ、残っています、協奏曲において誰がボスなのか?独奏者なのか?指揮者なのか?」
ここで聴衆は爆笑。当然だ、バーンスタインは笑いを取りに行っている。
「その答えはもちろん、ある場合は独奏者、ある場合は指揮者という具合でしょう、その二人がどういう二人かによって決まります。」
「ほとんどどんな場合でも、この二人はなんとかその意見をすりあわせて共通の見解に至るように努力するでしょう、ある場合は説得、ある場合はチャーム、そしてある場合は脅迫に訴えても。」
バーンスタインはこれまではそうやってきたのだ。たぶん、ほとんど自分がボスとなり、言うことをきかせてきたのだろう。チャームとは具体的に何を意味しているのだろう?有名なホモセクシャルだから、まさか?!
「私はこれまでの一生で一度だけ、受け入れなければならなかったことがあります、独奏者の全く斬新で賛成できない構想を。それはこの前、グールド氏と競演したときのことでした。」
ここで大爆笑。英語ではこの文章の一番最後に、with Mr.Gould が来るし、この直前に劇的な間を作ってしゃべるから、ちゃんと笑ってもらえる。
「しかし、今回は、私とグールド氏の見解の間にある不一致は非常に大きいので、私はここで一言説明しておくべきなのです。」
前回は黙って指揮したけれど、今回は一言言わずにはいられない。
「が、ここでさっきの質問を繰り返さずにはいられない、私はこれを指揮することで何をしようとしているのか?」「ちょっとしたスキャンダルを覚悟すれば、独奏者を換えさせることもできたし、副指揮者に指揮させることもできました。」
意見の不一致がここまで大きかったのだから、一緒にできない、という結論を出すのが自然で、その場合、言うことをきくピアニストと入れ替えてもよいだろうし、グールドの言うことをきく指揮者に指揮させても良い。なぜそうせず、こういうスピーチをするという、前代未聞の行為をしてまで、グールドとこの曲を演奏するのか?
「なぜなら、私はこの頻繁に演奏される名曲に全く新しい光を当てるチャンスに大きな魅力を感じているから、さらに、グールド氏の演奏には、驚くべき新鮮さと説得力を持って迫ってくる瞬間があるから、3つめの理由として、我々すべてはこの全く普通じゃない芸術家、思索する演奏家から何かを学ぶことができるから。」
バーンスタインは疑問を持ちつつも、グールドの構想に魅力があることを認めており、拒否することは音楽家としての良心に恥じることになるし、ボツにしてしまうのは惜しいと感じている。
「そして最後の理由として、音楽には次の要素が確かに存在しているから、それはディミトリ・ミトロブーロスがしばしば言っていた、スポーティング・エレメント、つまり、好奇心、冒険、実験という要素です。」「そして、私は皆さんに示すことができます、確かに今週ここにグールド氏と競演するという冒険が存在するということを。そして、この冒険精神に則って、ここにこの曲を演奏するものであります。」
チェロ ピアノ