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これに興味をもたせるためにはやっぱり譜例が必要でしょう。僕もこの曲はかなり覚えていますが、どの部分か完全にはわからないですね。それでも最初のホルンはあの弱音器のところでしょう。
分析というのは感情入れちゃいけないのです。音楽の中で起こったことだけを客観的に上手く言葉に直して言うことですね。
2012年03月05日 23時49分50秒
初コメ 横コメ 失礼します。
難しい事は解らないので・・・
Kan-noさんの
「分析というのは感情入れちゃいけないのです」
心得ました。分析なんて仰々しい事出来ませんが、楽譜を見る時は無心ですね。いぇ、今まで感情を込めて楽譜を見た事は無いですが。なんだか「へぇ〜」と妙に納得感心したのでお礼を。ありがとうございます。
日記と無関係のコメント失礼しました。
2012年02月26日 10時46分13秒
>Shigeru Kan-noさん、初めまして。
コメントありがとうございます。
>これに興味をもたせるためにはやっぱり譜例が必要でしょう。僕もこの曲はかなり覚えていますが、どの部分か完全にはわからないですね。それでも最初のホルンはあの弱音器のところでしょう。
仰るとおりです。譜例については言われるまでは全く考えてもいませんでした。
ただShigeru Kan-noさんは、丹念にお読みいただいたものと思います。
今後またこのような記事を書くかどうかは分かりませんが、今の自分の解釈のレベルを知って欲しいとの思いのほうが強いのでその辺りが伝わってくだされば十分です。
>分析というのは感情入れちゃいけないのです。音楽の中で起こったことだけを客観的に上手く言葉に直して言うことですね。
なるほど。
分析というには程遠い内容だとは思います。
記事の最後のところに注目して頂きたいのですが、
これは今後に向かっての私の願望のようなものでも
ありますので、
その点はどうかご容赦ください。
今後とも、ご教授よろしくお願いいたします。
2012年02月26日 14時14分36秒
言葉だけだとこの曲を知らない人にはきついです。作曲やっている人は分析はお手の物です。でも何時も欲しいのがやっぱり楽譜ですね。何とかしてここで出せるとみんなも興味を持ってくれるかもしれません。スコア全部は要らないのですね。例えばここだったら、ホルンの5つの音だけで良いんですね。この音は弱いんですが、単独で最初に出てくるのでかなり耳につきます。
まあー、マーラーの第九は彼の作品の最高傑作ですね。新しい調性を開拓したと言うのですが、この曲の直接のきっかけはやはりワーグナーの「トリスタン」の第三幕でしょう。どんどん調性のメロディーや伴奏が切り話されて分離・分解され、やがて何時かはウェーベルンのようにバラバラに崩壊するのですね。音楽の核分裂みたいなものです。
2012年03月05日 23時48分45秒
音楽の分析とは科学の分析と全く同じです。まずバラバラに仕分けします。メロディー・伴奏・対旋律・リズムなどです。更にもっと詳しく分析するとそのパラメータまで分解できます。音の高さ・長さ・強弱・音色などですね。それを全部分解して初めてその成分を言うことができます。それからそれを再構成して肉付けします。そしてその構造が徐々にわかるのですね。更に横の流れですね。その素材がどのように発展したか言うことができます。それがどんどん大きくなると最後には形式ですね。マーラーの第九の一楽章の場合は拡大されたその他形式。ブルックナーのような第3主題まで認めても良いかもしれません。3番目の主題は言うまでも無く葬送行進曲風のファンファーレですね。展開部は3部に分割されますが、それぞれその特徴を言うことができます。それから縮小された再現部が来てカデンツァ風のソリの絡み合い。それから長く伸びたコーダが来るでしょう。もちろん我々はこの曲を聴いたときに何かを感じるはずですが、人一人みんな違うので余り言ってもたいした意味はありません。要は死を目前とした音楽であることでしょうか?
2012年03月05日 23時49分21秒
>Shigeru Kan-noさん、こんばんは。
メッセージやコメントでもお伝えしましたが、
現段階で理解できる範囲と理解できない範囲があることは、まずご承知くださいませ。
たとえば、この動画です↓
(アバド指揮 グスタフ・マーラー・ユーゲント管)
http://www.youtube.com/watch?v=tbxpX5aImLw
指揮者とオケのメンバーの演奏中の表情にも注目しながら見ていただきたいです。
メンバーが若い人ばかりということも関係しているかもしれませんが、とても瑞々しく「死」という観念からは遠いような気がします。
そして、テンポのことだけをお話すれば、
この楽章は途中アレグロにテンポアップする部分はありますけれど、大部分においてはアンダンテですね。
これってアダージョ?むしろラルゴ?と感じてしまう位に遅すぎる演奏が多い気がします。(それほど沢山の演奏を聴いてはいませんが…)
いかがでしょう。
イン・テンポという概念だけから言わせていただければ、とても私の感じ方にマッチすると思っています。
2012年03月05日 17時11分48秒
残念ですここでは見れない。光ファイバーが入ってないのです。ウィーンフィルと同じ解釈でしょう。この曲だけはウィーンコンツェルトハウスに忍び込もうとしたら警察呼ぶぞといわれてつまみ出されました。テンポに関して書くと次の通りです。
第一楽章は遅い方が効果がでます。30分はかけますね。おっかない曲です。2楽章のかなり長いのですがシノポリが面白く速いテンポでやってますね。それでもモデラート止まりです。したがってこの曲全体を速いテンポで引き締めることができるのが3楽章だけです。バーンスタインが11分代でやっています。要するにトリオの部分のテンポをスコアどおり落とさないのです。終曲はテンポが遅いほうがちゃんと死ねます。やはり30分はかけます。最長がベルティーニが都響振ったときかな?この部分が遅いとみな名演になります。レヴァインも遅いですね。
2012年03月05日 23時47分24秒
>Shigeru Kan-noさん
何気に注目をしていただいたようで、度々のコメント恐れ入ります。
効果とは「ちゃんと死ねる」効果のことですか?
「音楽の中で起こったことだけを客観的に上手く言葉に直し」たとはとても思えませんが…
作曲家はこの曲を書いた直後に死んだわけではありませんし、
未完ながら第10番も構想し、着手していますね。
この曲を聴いて自殺者が続出するようでしたら、現在まで演奏されることはなかったでしょう。
あくまでも喩え話です。
私はもっと単純に、2楽章は軽快な音楽で一休みをして、
3楽章は終楽章を際立たせるために荒々しい曲を挟み、
終楽章は調和の取れた美しい音楽。
という受け止め方をしています。
ただ第1楽章については、音楽の歴史においても、
作曲家の功績を評価する上でも重要な作品であると思っています。
残念ながら、それを客観的に説明するだけの力が今の私にはありません。
テンポのことを例に挙げたのも、それが一番分かりやすいからです。
2012年03月06日 21時32分41秒
音楽は、まず心で受け止めるものです。
「琴線に触れる」という言葉は、本当に上手い表現ですね。
心で受け止めたものに、分析という知の力が加わって初めて解釈という領域に達するのでしょう。
プロの方を前にしては、とても言いにくい内容ではありますが。
アバドの解釈について既にご存知であるのなら、
まずそれについてお話伺いたいところです。
ちなみに私は、アバド&VPOの組合せのCDはまだ聴いていませんので、Shigeru Kan-noさんの文章表現力が問われますよ!
2012年03月06日 21時36分16秒
今ローマから帰ってました。すぐ仕事が始まって今ビール3本で泥酔しています。
音楽は心で受け止めると言わなくとも人は自動的に心で受けとめますから言わなくとも自動的にそうなるのです。
しかし人はどう心で受けとめるか、すなわちどう感じるかは千差万別ですからそれを人に向かって強制することはできないのです。
ただ一ついえる現象はその楽譜がどうなっているのか、それによって出てきた音がどうなるのか言うことが客観的にかつ科学的にできるだけのことなんです。
アバドはどこオケでも解釈は大体同じでしょう。彼はそう感じるからそうやっているだけのことですね。でも世界の聴衆がどれだけ彼を支持できるかは別問題です。
僕はどちらかというと彼の綺麗事のだけの演奏は支持しない方です。「死」の問題がこの曲に一番重くのしかかっていますからね。そんなに死というものが美しいでしょうか?そんなに腐乱死体や白骨死体・ミイラがアマービレでしょうか?僕はそういう解釈と甘ったれのお坊ちゃんの哲学と称しています。
2012年03月14日 07時38分46秒
こんばんは。横から失礼します。
「人はどう心で受けとめるか、すなわちどう感じるかは千差万別」…だからこそ、自分と違う解釈を聞くのは面白いですね。
このサイトではないのですが、たまに特定の楽曲について感想を述べている方がいると、「自分の感じ方を人に押し付けている」と文句を言う人を見掛けます。全然強制しているようには見えないのに。
そういう時私は、何とつまらない人なのだろう、と思います。
同じ物でも、見る方向によって形が変化するように、音楽も見方を変えてみる、あえて色々な<先入観>をもって聴いてみるのは、とても面白いことです。
ひとつの先入観に囚われてしまうのは、発展性が無いですけどね。
(「先入観を持って聴いてはいけない」というのも、一種の先入観だと私は思います)
なお、私は「哲学を語る」ために音楽を聴いている訳ではありません。念のため。
2012年03月14日 21時17分05秒
>Shigeru Kan-noさん、こんばんは。
お忙しそうですね。お疲れ様です。
コメント、ありがとうございます。
私も今、ビール片手に書いてます(笑)
>音楽は心で受け止めると言わなくとも人は自動的に心で受けとめますから言わなくとも自動的にそうなるのです。
しかし人はどう心で受けとめるか、すなわちどう感じるかは千差万別ですからそれを人に向かって強制することはできないのです。
私が何かを強制をしたのかどうかは別としても…
「自動的」と仰るよりは、「受動的」という言葉を持ち出せないだろうかと今思いました。
私がむしろ言いたいのは、
段階を踏むとすれば、こうなりませんか?
という問いかけです。
所詮、素人の戯言と捉えてくださっても結構なのですが、私も一足飛びに理解はできません…。
その点は重ねてご容赦くださいませ。
>ただ一ついえる現象はその楽譜がどうなっているのか、それによって出てきた音がどうなるのか言うことが客観的にかつ科学的にできるだけのことなんです。
この点は、まだ私もニュアンスとしてしか捉えて切れおりませんが、仰りたいことはよく分かります。
本当にです。
なので、より具体的なご説明をできれば頂きたかったのです。
>アバドはどこオケでも解釈は大体同じでしょう。彼はそう感じるからそうやっているだけのことですね。でも世界の聴衆がどれだけ彼を支持できるかは別問題です。
まぁ、それは確かに別問題でしょう。
つまり、どんな演奏が支持されるのか、ということですよね。
この話題を持ち出してしまったら、それこそ一昼夜では語りつくせないでしょうし、それはやはりプロの方が十分にお考えになった上で
然るべき場所にて発表をすべき内容かと思います。
>僕はどちらかというと彼の綺麗事のだけの演奏は支持しない方です。「死」の問題がこの曲に一番重くのしかかっていますからね。そんなに死というものが美しいでしょうか?そんなに腐乱死体や白骨死体・ミイラがアマービレでしょうか?僕はそういう解釈と甘ったれのお坊ちゃんの哲学と称しています。
私がお聞きしたかったのは、Shigeru Kan-noさんが思うところのアバドの解釈とは…?
という点です。
批判的であるということは分かりましたが、プロの方がプロの方を批判をするのであれば、
やはりそれ相応のものが必要なのでは?と思います。
好き嫌いを述べる分には、やはり人間なのですから一向に差し支えないでしょう。
けれども、「支持しない」と明言するのであれば、
やはりその理由を具体的に述べる必要はあると思いますが、いかがでしょうか。
2012年03月14日 21時21分48秒
>九尾さん、こんばんは。
貴重なご意見、ありがとうございます。
>「人はどう心で受けとめるか、すなわちどう感じるかは千差万別」…だからこそ、自分と違う解釈を聞くのは面白いですね。
本当に仰るとおりだと思います。
もしかしたら、他の人は自分とは全然違うことを感じているのかも…?なんて考えてみるだけでも、
ワクワクします。
音楽って不思議で楽しいな、と思える瞬間でもありますよね。
ただ私の場合に限ってかもしれませんが、
最近になって「解釈」という言葉はむやみに使えないのではないかな?と思うようになりました。
ほかにどう表現すべきか難しいですが、現在模索中ということで^^;
>同じ物でも、見る方向によって形が変化するように、音楽も見方を変えてみる、あえて色々な<先入観>をもって聴いてみるのは、とても面白いことです。
ひとつの先入観に囚われてしまうのは、発展性が無いですけどね。
(「先入観を持って聴いてはいけない」というのも、一種の先入観だと私は思います)
これはちょっと「目からウロコ」なご意見です!
なるほどなぁ…と思いました。
私が初めての曲を聴くとき、できるだけまっさらな状態に持っていきたいのですが、
年代や作曲者が楽譜に記した指示、あとはテンポと何拍子の曲なのか…くらいはざっと知るようにしています。(知れる範囲で、です。)
九尾さんは色々なことをご存知なようですので、きっと私とは異なった聴き方をしているのでは?と
思っています。
2012年03月14日 22時04分02秒
わあー、長そうな質問ですね。一般に全部は無理なので少しずつやりましょう。
人一人全部違いますから同じ音聴いても感じどころは違って当然ですね。その人の人生の経験によく左右されます。まあー、ある曲に関しては誰でもこうあってほしいなという理想像はあるでしょう。それが各指揮者への支持率の差となって現れるのでしょう。マーラーに関してバーンスタインの評価が一番高いのはその各個人の理想像の最大公約数が一番高いところにあるのでしょうね。アバドやマゼールなどになるとかなり支持がばらばらになります。
2012年03月14日 22時18分21秒
>Shigeru Kan-noさん
私がお聞きしたかった内容は、せいぜい1つか2つしかありませんが…。
では、ご質問の切り口を変えてみますね。
たとえば、演奏をする側が作曲者の指示とは反するような演奏をする場合に(ここでは、アンダンテをアンダンテではなくという意味で)、
どんなことを思われているのでしょう?
この曲に限った話ではないのですが、この話題についてはかなり以前から興味があります。
2012年03月15日 06時31分57秒
時間がまとまって取れないのでまだ書いていません。でも質問を替えても良いです。
実は作曲者自身もテンポの問題は定かではありません。自分もそうですね。もちろんそりゃ楽譜には4分音符は1分間に90とかは書きます。しかし後で実際に聴いて思い直してみますとそれが良く間違いであることが良くあります。例えば僕の4日前の日曜日にローマで初演した室内交響曲VII「地震・津波・原発」は10分以内の演奏時間の条件ということで4分音符は120で4分の4拍子で300小節という内容でしたが、実際の演奏は12分かかりました。少し遅めにやった方が聴くものの魂が充足して納得率が高まるのですね。そうやって自分の思ったテンポとかなりずれて結果が出ることは良くあります。作曲者の願望としては作曲者が同席する初演だけは一応良くとも悪くとも指定どおりにやって欲しい。でもそれは絶対とは限らないので、作曲者が同席しない再演においては自由に任せています。それが個々の指揮者による解釈だし、それで良いと思います。あくまでも4分音符が1分間に120は参考・目安程度に過ぎません。
一方マーラーはアンダンテ・コモドなどとは書いていますが、実際のテンポの機械的な表示は避けていますね。多分指揮者としての経験からでしょう。だから同じアンダンテといっても1分間に普通は80程度ですが、60や90でもアンダンテと感じることができるしそういう人はたくさんいますね。そういう自由が選択できるところが演奏解釈の醍醐味でしょう。人によって感じるテンポが違う、それはそれで素晴らしいことかも?
説明足りないところはまた後で書きましょう。
2012年03月15日 17時54分59秒
Shigeru Kan-noさん、こんばんは。
とても興味深いお話をしていただきまして、ありがとうございます。
客観的な速度の指標と言えば、メトロノームが思い浮かびますが、これもやはり目安に過ぎないという話を読んだことがあります。
そして、実際の発表の場では、運営上の制限がかかる場合もあるのですか?
もちろん、初めて知ったことです。
つまり与えられた時間内でどう表現するか、という問題も含まれているということでしょうか。
これは一般的には考えにくいことですけれども。
>60や90でもアンダンテと感じることができるしそういう人はたくさんいますね。そういう自由が選択できるところが演奏解釈の醍醐味でしょう。
つまり、作曲者の考えるインテンポと演奏解釈の上でのインテンポは必ずしも一致しないということですね?
自分で言ってて、よく分からなくなりそうですが…
ただ仰りたいことはとてもよく分かります。
私はバーンスタインの演奏とアバドの演奏は似ているというか、アバドはバーンスタインをかなり参考にしていると思えました。
速度は比較的どちらも早いほうではないですかね。
両者の違いは、バーンスタインのほうが緩急自在であり、より抒情性があるということでしょうか。
アバドにそれが無いということでもないですが。
どうぞ、お時間の許す限りで結構ですので、
あくまでも作り手として、また演奏する側として思うところをお話ください。
2012年03月15日 21時23分59秒
ええー、メトロノームはあくまでも目安です。じゃ無いと具体的に指揮のしようが無いし演奏者もあらかじめ練習するのに困ります。実際の演奏は技術的なことに加えてアゴーギクなどが細かく入ってきますのでずいぶん違ってきます。
アンダンテの平均速度は大体70から80ぐらいでしょう。それが3拍子系になると速く感じませんからもっと実際には速くなります。
もちろん作曲者の望むテンポはあります。でも初演のときだけは良くも悪くも実際にそうして欲しいと思います。ただ再演以降は何がベストかは自分もわからなくなります。例えばベートーヴェンの第九の指定の64分でなくて70数分かかる件、マーラーの第九は遅く90分でやると名演奏になる確立が高くなる件などは古今の指揮者が何百回以上やってみてようやくもっとも適切なテンポにたどり着いた結果なのです。フルトヴェングラーやベーム・バーンスタインなどの大指揮者はそれを踏襲していますから名演の山を残すことができたのですね。
それは最近のピリオド奏法の対極点でもあります。彼欄もやることはただがむしゃらに初演時のテンポでやることだけです。コープマンのように例外的に大指揮者が残したテンポを踏襲する人はたまにはいますがそれは寧ろ例外的です。結局は当時の指定のテンポで機械的にやりますから総じて速くなります。
2012年03月16日 02時11分52秒
アバドはバーンスタインは先輩ですからもちろん学んでいるでしょう。しかしテンポは同じではありません。バーンスタインが晩年90分超えているのに対してアバドWPは75分39秒でやっています。最大の問題は終楽章の21分30秒という演奏時間ですね。これをバーンスタインやベルティーニは30分かけます。谷終楽章を3分地殻かけた指揮者を列記して見ましょう。エッセンバッハNDR,レヴァインMP,シノポリSKD,カヒーゼTSOなどですね。この楽章は遅くやれば遅くやるほど状況が深刻になり完全に死ぬことを体験することができますからそれだけ感動の量が大きいわけです。
2012年03月16日 02時19分21秒
バーンスタインのテンポの最大の特徴は遅いところはより遅く、速いところはより速くやるということです。これと同じようなテンポを取る指揮者はマーラーの第九はやっていませんがあのフルトヴェングラーのみです。特にバーンスタインのマラ9三楽章の11分47秒のテンポは他の指揮者には見られません。その内訳はスケルツォはもちろんテンポが速いのですが、そのほかにトリオでも指定どおり決してスケルツォのテンポを落とさないということです。それで第三楽章を全体的に急がせてこの曲のだらっとした感じを立て直して引き締め、面白く聴かせるのですね。これだけしっかりやっておけば安心して終曲で超ゆっくり音楽を楽しむことができますので、彼らのテンポ設定は完全に人間の生理に合っているのですね。誰だって甘いものを食べたらいつかはしょっぱい物が欲しくなります。乾燥したパンをたくさん食べたなら水やジュースが欲しくなります。この要求を完全に実現してくれるのが彼らのテンポだけですね。だから多くの聴衆に支持されるのでしょう。
2012年03月16日 02時29分08秒
まあー、ここまでがテンポだけに関しての話でした。そのほかにバランス、歌わせ方、奏法のはなし、学期の話、フレージング、強弱の変更、アーティキュレーション、クライマックスの築き方などいろんな問題があります。次回以降、時間があり次第話していきましょう。
2012年03月16日 02時32分21秒
Shigeru Kan-noさん、おはようございます。
とてもご丁寧な説明をお寄せいただいて、感謝の限りです。
今回はテンポについてのお話でしたが、お陰様でこの曲に対する興味がますます湧いてきました。
途中、いささかご無礼な発言もあったと思いますが、その点はお詫び申し上げます。
やはり作曲者が望むテンポというのはあるのですね。この曲に限っては、マーラー自身の指揮による初演が行われなかったために、死後長い時間を経てひとつの典型ともされる解釈が築き上げられたということでしょうか。
残念なことに、私は演奏史についてはこの曲に限らず非常に疎いです。けれども、それを追って行くというのも音楽を楽しみ方のひとつでしょうね。
ベートーヴェンの第9とマーラーの第9を比較するのも面白いと思います。
100年弱の期間で何が変わり、何が変わらなかったのか…それぞれの時代の特色はあると思いますし、そういった観点については逆にとても興味があります。
フルトヴェングラーの演奏は何につけ敬遠していましたが、しっかり聴いてみたいと思いました。
「ピリオド奏法」は、初めて聞いた言葉です。
調べた結果、使用する楽器も奏法もまた演奏についても作曲当時のものを再現するという認識で間違いないですか?
20世紀の末からひとつの流れとして存在し、定着してもいると思います。
この流れを受けて、いわゆる巨匠的な演奏の歴史は終わり、モダン楽器による演奏でもテクスチュアにより精確に演奏しようという流れは現在でも受け継がれているのでしょうか。
2012年03月17日 09時47分57秒
そういった流れを汲むと、アバドはとてもモダンなスタイルで演奏しているのでしょうね。
彼の演奏については、もっと評価されても良い気がします。
面白いのは、ブーレーズの演奏と比較してみれば、それぞれのやろうとしていることが見えて来る感じがします。
どちらもテンポは終始一定というか、楽譜に忠実にという姿勢が感じられます。ブーレーズのほうが慌てずじっくりという感じで、対旋律も含めて一音一音が非常に際立っています。
研究者向けというような演奏ですね。その分感動は少ないのかもしれません…。
ラトルはラトルでまた少し違うことをやっていますね。
バーンスタインは人間の生理にもかなっているというご意見は、とても興味深く思います。
ベルリンライブ盤に限っての話になりますが、これほど音楽の世界に引き込まれる演奏はあまりないでしょうね。
ただ第1楽章に限っては、第1主題を詩情豊かに弾かせているのに対し、第2主題は明らかにテンポが急激に速くなりますね。私はそこに多少の違和感を覚えますが、素晴らしい演奏であることは私が言うまでもないことです。
テンポだけの話題でこれだけのことがお話できて、本当に嬉しく思います。
私の理解が足りないとお感じになったところは、都度、ご教授いただけると助かります。
なるべく素人にも解り易くお願いしたいと思います。
逆に、Shigeru Kan-noさんがお話足りないと思うところはどうぞご遠慮なく。
次回は、フレージングについてお聞かせいただければ幸いです。
これは器楽曲や室内楽曲を聴いている時に、とても気になることがあります。
私のほうで上手く伝えることができず、もどかしさもありますが、今後ともよろしくお願いいたします。
2012年03月17日 10時08分10秒
曲について詳しく述べることがその曲についての理解を深めます。
今ラットルが出てきましたが、彼は細部の大家として評価が決まってきましたね。個々の細部の音楽的な処理はまさに天才的。でも全体を通して見るとちっとも印象に残らない、フルトヴェングラーと対極的な指揮者。フルトヴェングラーは細部はめちゃくちゃ合わないし酷い、でも全体を通して演奏を振り返って見ると決して忘れることができない超名演だらけ。演奏された音楽を聴衆に忘れないように印象付けるにはまさにこの全体を考えられることこれが巨匠の条件なのでしょう。
2012年03月17日 18時55分03秒
演奏法の一般条件としては普通は書かれている楽譜よりも極端にやると聴衆にその様子の印象が強く焼き付けることができます。テンポしかり、強弱なんかもそうです。大指揮者はみなその方向なんです。アーテキュレーションも同様でクライバーは「こうもり」で普通のスタッカートを極端にする様に要求していました。テぬーとなんかも同様。実は彼の棒は指揮コンクールの予選も通らないくらいのめちゃくちゃです。バイエルンの人は当時本番が思いつきでどう振られるのかわからないので凄く怖いといってましたね。
2012年03月17日 18時59分41秒
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只今11月24日(日曜日)の・・・(Mariaさん)
マーラーの交響曲第9番の第1楽章の冒頭で、ホルンによって鳴らされる5つの音。
これは、ニ長調の音階の属音Aから主音に向かってひとたび上がって行き、寄り道をするように半音だけ下がってから、今度は一気に5度下がり、そして最後にはまたやや大きく上行する・・・
まるで人生そのものと言いたくもなるところではあるけれど、最後の1音はまた上がったところで終わっているのだ。
上がってから、一気に落ちて、それで「おしまい」なのではなくて、また上を目指して行く。
マーラーの生涯とはそのようなものであったのだろうか。
ウィーンを追放されたようにして新天地に音楽活動の拠り所を求めながらも、ヨーロッパへの思いを断ち切れずにいたマーラー。
作曲家がこの曲を自身の集大成のつもりで書いたのであれば、そこにどんな思いがこめられていたのだろう。
ひとりの人間には必ず死はやってくるものだが、音楽の歴史にはきっと終わりはないはず。
この音型の後半部分は、静かに始まる第1主題が4小節でひとつの区切りを見せたところでさっそく、
Cis・G・H、Cis・G・Hと変形されてくり返されるけれども、全楽章の中でも完全な形でくり返されることは実は少ない。
よくよく注意して聴いていなければ、聴き逃してしまうほどにそっと置かれていたりもする。
むしろ、同じように5つの音で構成された第1番「巨人」の終楽章での第2主題を引用した音型のほうが、まるで青春時代の情熱を取り戻そうとでもするかのように、楽章の節目で執拗にくり返されたりする。
ただそこでは、「巨人」の頃のような甘さや優しさはまったく見受けられずに…。
冒頭のA・D・Cis・Fis・Hの音型が、私にとって最も印象的に聞こえるのは、コーダにおいて小クラリネットによって奏されるとき。
マーラーは天上の世界を思い描いたような音楽をよく作ってきたとは思えるけれども、この箇所はまさにその瞬間だと思う。
でもそれは、決してあきらめの瞬間ではなくて、逆に清々しくもあり、まるで自分の弟子たちへ未来を託そうとでもするかのように愛情や優しさが見えてはこないだろうか。
もしそうであるのなら、この音楽を重い足取りを引きずるような苦悶に満ちたような響きの連続で演奏するばかりではなく、荒々しさの中にも慈愛が感じられるようなもっと軽やかで、
未来への希望を思わせるような新しい音楽の誕生を期待させる楽しみにも満ちた演奏を、私はもっと聴いてみたい。
そしてこれからも、今とはまた違った見方で新たな発見ができることを願って、マーラーのその他の作品はもちろん、様々な音楽と向き合っていきたいと思う。
了
作曲家 交響曲 ヴァイオリン(バイオリン) チェロ 室内楽