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異文化を知ることと、体現することと

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久しぶりのログインと久しぶりのブログアップ。
相変わらずの長文を随想のように書き連ねますが、書くほうにとっても読むほうにとっても時間の無駄かもしれません。

でも、少しでも誰かの役に立てば幸いであると願ってアップします。

自分の興味の向きが少し様変わりした感覚があります。
とは言え、プロフなどを作りかえるのは正直、めんどうなのでそのままにしておきます。



―――孤独に歩め、悪をなさず、
   求めるところは少なく、林の中の象のように―――


これは、お釈迦様の言葉。教えである。

この夏に見たある映画作品で、セリフとして使われていた。

けれども人は、己が生きる為ならば、己の衣食住を満たす為ならば、どんなことでもするだろう。
人を傷つけたり、時には無残に殺し合いをしたり…いわゆるこれは性悪説であり、
同時に人は、美しいものに触れた時、心を打たれ、己の卑小さを感じることもある。
と言えば、こちらは性善説になる。

善悪について論じることが目的ではない。
そもそも善悪などは、時と場所によって様変わりするものであるし、
何を善とし、何を悪とするのかはその理由を探ったほうがいつも明らか。

その理由を理解することのほうがむしろ大事。

私はここで書きながら、考えながら、これから先の自分の後半生をどう生きたいのか、その方向性を少しでも見出したい。
もっとも緊急な必要として、歯止めなく浅はかになっていくように感じる自分自身に少しでもブレーキをかけてみたいだけなのだ。


この夏、音楽をあまり聴くことはなかった。

その理由として一番に挙げられるのは、音楽をじっくりと楽しめる環境が整わないからに過ぎないけれど、クラシックを聴いている時の自分に対し、何か違和感のようなものを覚えることがあった。

この感覚は、以前にも味わったような気がするし、初めてのような気もする。
正直、それはどちらでも構わない。

音楽を聴かずに何をしていたのかと言えば、マンガやアニメ、ゲームなどを楽しんでいた。
にわかヲタク生活。
そしてなぜか、古い作品ばかりが気になっていた。

どういうわけか、ナウシカを久しぶりに見たくなった。
なぜナウシカだったのかは、今ふり返ってみれば、その訳は自分自身ではよく分かる。
ナウシカが劇中で何度か発する台詞、「あなたは(もしくは、あなた方は)何を恐れているのですか」。
この言葉が胸に突き刺さった。

近所のレンタルショップで借りてきたDVDに、他の作品のプロモーション映像が含まれてあり、
その中でひどく印象に残る音楽があった。
伊藤君子という初めてその名を知る歌手の“follow me”という一曲。
彼女は、ジャズヴォーカリストであるけれど、この曲はジャズとは言い難く、言ってみればノンジャンルだと思う。

ロドリーゴのアランフェス協奏曲、第2楽章の有名な旋律を使っていることに、聴いた時、すぐには気がつかなかった。


冒頭のお釈迦様の言葉は、この“follow me”という曲をテーマ曲とした押井守監督の映画、
「イノセンス」の中で使われている。

押井守、「攻殻機動隊」、名前だけは知っていた。
いつかこの作品の世界を知る時が来るかもしれないし、来ないかもしれない、古い記憶のように残っている感覚。

押井作品については、好き嫌いが分かれるというのは頷ける。
私もようやくにして今回初めて作品を知ったけれど、「攻殻機動隊」についてはむしろ、原作のほうに興味が沸く。

映画化された「攻殻機動隊」については、哲学的で思弁的なテーマ、と言えば、確かにそうかもしれないが、
誰かがネット上で書いていたように、この「イノセンス」という映画は恋愛作品である。


私は、バトーのような人間像は好きだ。
でも彼は、ワーカホリックである。なぜワーカホリックになったのかは、
前作を見れば分かるかもしれないし、分からないかもしれない。

それよりも気になるのは、“少佐”の存在である。
“少佐”とは一体、何者なのか。私にはまだ分からない。
バトーも既に生身の人間とは思えないけれど、「イノセンス」の中ではとても人間臭く描かれている。
人間臭いけれども、彼はどのような状況にあっても、その境遇に屈することはないだろう。

その彼を支えている“少佐”という存在。
シリーズの続編となるこの作品の中では、その存在さえも怪しいものとなってはいるけれど、
彼は果たして、“少佐”を愛しているのだろうか。
彼の“電脳”にあるのは、姿を消してしまった者への執着心ではないのか、だとすれば、それは私の古い記憶、
あるいは現在の私の心のあり方とも結びつく。


私がこの「イノセンス」という映画を評価したいのは、実はその物語にではなく、
あくまでも作り手の姿勢にあると思う。

宮崎駿作品に代表されるように、商業的にも成功すればもてはやされるが、
かつてはこの国であってさえ、実写映画に比べれば、アニメ映画は低く見られていた。
その評価のされ方は、例えばディズニー映画のそれとは少し違うような気がする。
そのような環境にあるにも関わらず、この作品で押井監督は、アニメならではの表現を追求しているように感じられたのだ。

この人、アニメが本当に好きだし、それ以上に映画作りが本当に好きなんだと、
本人がインタビューなどで語っている言葉とは裏腹に純粋なんだな、と私は感じた。

そのように感じられたことが私には重くのしかかり、ますます音楽から離れてしまっているように思える。



「愛」という言葉をさっき使った。
話の流れから持ち出せば、愛する対象とは必ずしも人であるとは限らない。
この心理、心情、概念…本当に必要なものであるのか、ということも含めて私には近頃、謎が深まるばかりである。

私が愛という言葉から思い起こすのは、献身、犠牲、つまり己を捨てること。
この心の向きは、明らかに外へ向かっている。
そして言うなれば、これはキリスト教に見られる概念なんだと思う。
例えば、音楽によって何が出来るかと考えることは、自分自身に何が出来るのかと考えることとイコールであったのだと私は気がつく。

要するにこれは、異文化なのだ。
もともと私たちに備わっているものではない。
だから難しい。

一方で、一切の執着を捨て、己を楽にする術を身につける。
この世界のあらゆる物事は無常である。
とすれば、これは仏の教えであり、冒頭のお釈迦様の言葉ではないが、
なぜか私たちの心にすっと馴染むところがある。

「色即是空」という言葉などを持ち出せば、芸術と言われているものはすべて無意味であるとも思えてしまう。


さて、今私は、カトリックの聖人、アッシジのフランチェスコの生涯にとても興味を覚えて、自分はやがて、仏教の意味するところとはおそらく異なる信仰を持つべきかどうかと考え始めている。

生涯、信仰など持つことはないだろうと思っていた自分にとってみれば、「まさか」のことでもある。

繰り返しになるけれども、
男子サッカーの日本代表が、長い時間と労力をかけても世界の強豪チームとは
なかなか対等には渡り合えない現実を持ち出すまでもなく、
異文化を「知る」ということと「体現」するということの間には大きな隔たりがあり、困難を伴うということを知る。

その一方で、「なでしこジャパン」は、世界の強豪チームからも敬愛されるようなチームとして大きく成長している。

我が国のクラシック音楽の歴史においても、一時の傑出した才能が生まれることがあったにしても、それが果たして全体にどれほどの影響を与えているのかと考えると、大きな疑問が生じる。

別に喧嘩を売っているつもりは毛頭なくて、異文化を「体現する」ということは、
自分自身をそっくり、身も心もすべて作り変えてしまうくらいの大きく貴重な出来事だということ。
そしてそれが出来るということは、大きな楽しみでもあるはずなのだ。

現在のような世界においては、その機会は誰にでも均等に、またその可能性も均等に与えられているのかもしれない。
少なくともこの国においては。


自分が今、イメージしていること。
それはある程度まではっきりとはしているが、やれる自信はない。

バトーにとっての“少佐”のような存在は、実は私にもあって、
その人も同じように私の前から姿を消し、自分の夢を実現するための一歩を踏み出した。
私がかつてその人に、たくさんの迷惑をかけてしまったことは大きな悔恨であると同時に、
今になってもなお置いてけぼりにされた感覚は否めない。

でも、これまでの一切を投げ捨てて、夢への一歩を踏み出したその姿は、私にとっては励ましでもある。

クラシック音楽に殆ど接することがなかったこの夏は、思いのほか平穏であって、
そんな生活に慣れ始めてしまった今はむしろ、ほんの少しの寂しさがある。
思わぬところから投げ込まれた一曲を聴いて、これほど様々なことを考えるとは自分でも思っていなかったけれど、
そうである以上、私がまったく音楽と無縁に生きることはやはり無理なことだ。

いちばん恐ろしいのは、決めつけてしまうこと。
仏教だからダメ、キリスト教だからダメ、クラシックだからダメ、アニメだからダメ、日本のサッカーだからダメ・・・
自分の好きな世界だけに閉じこもっていなくても、人生においてはどんな出会いからでも学ぶチャンスはある。
そして、学ぶ姿勢を持ち続けることが大事なのだ。

私にとっては、お釈迦様と聖フランチェスコの生き方が似た側面を持っていると感じられることが
大きな不思議である。

それが身に沁みて分かっただけでも大きな収穫としようではないか。

 作曲家 交響曲 ヴァイオリン(バイオリン) チェロ 室内楽


日付:2012年10月21日

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