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宗教というものは、つくづく恐ろしいものだと思う。
今日、生まれて初めてカトリック教会でミサというものに参加し、感じたことの一つがまさにこれです。
一ヶ月ほど前の夜、関口の大聖堂へオルガンの豊かな響きに包まれたい気持ちと、
自分の心の動きをじっくりと見つめたい気持ちとが重なり合った挙句に訪れた「オルガンメディテーション」。
( http://cathedral-sekiguchi.jp/mass-seminars/organ-... )
以来、毎週のように教会に通っては神父さんのお話を聞きに行ったり、
人けのない聖堂にこもっては読書に耽ったり、ひととき心の中を空っぽにしたりしながら過ごしています。
年に一度だけ開かれるという今日のミサには、ある一つの大きな目的がありました。
その目的を知ってしまった以上は、どうしても参加させていただく必要があると思ったのです。
忘れかけたように感じていても、忘れてはいないし、忘れてはいけないことが私の胸のうちにはあります。
それがどのような性格のものであれ、きっと誰にでも、あることでしょう。
深い悲しみという傷はすっかり癒えています。今日一日でそれを強く感じました。
けれども、この悲しみは痛みは、人と共有できるようなものなのか、私にはまだ分かりません。
なぜなら、同じ目的のために集ったたくさんの人たちとのミサという場にあって、私の心は平穏と動揺との間を右往左往していたからです。
信者ではないのですから、それも仕方のないことなのかもしれませんが、宗教というものはつまり、人の心を巧みに操るものだと感じられたのです。
このようなことを語るとき、口を慎まなければならないと思います。
けれども、私が敬愛する故人である神谷美恵子氏も仰っていたように、
キリスト教には他宗教を迫害するという暴力性が内在しています。ある意味では、
とても窮屈な世界観に縛られているとも言えます。
「憐れみ」、「許し」、「神のみ心のままに」、「隣人を愛せよ」…。
たしかに私は、自分が「罪深い者」であることを知っていて、仮にそのような認識を持っていたとしても、上に挙げた言葉を実行することには過去の経験則からも苦難を感じます。
これが私の「告白」であるのなら、信心が無いにも関わらず、既にキリスト教的な思考に毒されているのかもしれませんが。
私の私なりの探究によって、あるいはキリスト者の方からの教えによって、この内にある暴力性に納得できる答えが得られなければならないと思います。
音楽の話に移りましょう。
ミサの間に歌われる讃美歌は、とても覚えやすく単調な響きであるにも関わらず、皆さんの歌声は私の胸に沁みました。
私にとっては特別な一人の人を思いながら、讃美歌を聞くとき、心が自然と開かれていく感じがしました。
けれども、詞の言葉に注意を向ければ途端に、痛みと動揺が走ることがありました。
音楽から得られるものは、決して安らぎだけではありませんが、やはり私には音楽から与えられる以上の安らぎを他に知りません。
今は聖書にある言葉にも興味がありますので、福音朗読ともなれば、その言葉の意味するところに注意が向けられ、どうしても思考が巡り始めます。
平穏だった心は、あたかもそれが仮初めのことのようにも思えてしまいます。
「はじめにロゴス(言葉)ありき」と言えども、思うに、
言葉とは、死者に向けられるべき慰め。つまり、生あるものにとっては、死に向かうための心の準備ではないかと思えるのです。
生き方を問うときに必要なのはやはり、思考であり、理性であり、あらゆる出来事から学ぶ姿勢のような気がします。
宗教のことを語るときに確信を持っては言えませんが、信仰とはつまり、心理的な要因が強いようにまだ今の私には思えてなりません。
それなら私も含めて信心の無い者にとって、必要なのは、より感性に強く働きかける音楽によってもたらされるものが何なのか、よくよく考える必要があるかもしれません。
言葉よりもむしろ刹那的であったとしても、より生に働きかけるものだと感じているのだとしたら。
いずれにしても、私の胸に動揺が生じる理由の一つは、ここにあるように思えます。
最後に、聖フランチェスコの話を少し。
人がどのように思うにつけ、今自分が自己変革の時を迎えていることは否めません。
意識的にか、無意識的にか、それはどちらでも構わないことですが、
根っからの日本人でありながら、10代の頃から西洋、特に西ヨーロッパを中心に育まれた文化に惹かれ、興味を持ち続けている一人の人間として、
何かをやり遂げたいと思い始めていることに間違いはありません。
音楽の中にも神が宿る、ともし今ここで聞いたなら、おそらく自分はその言葉に打ちのめされてしまうでしょう。
でもそれは、誤解を恐れずに言えば、麻薬のようなものです。
私が求めているのは、かくのごときものではないはず。
けれども、三位一体を唱えるキリスト教が、いわゆる一神教であるとした上で、
聖痕伝説のある聖人、フランチェスコの生涯とはどのようなものであるでしょう。
彼はあらゆる被造物、つまり自然や動物もこよなく愛したと言います。
現代までに伝えられているものはごく僅かだそうですが、多くの詩を詠んだとも言われています。
それはあたかも、あらゆる事物に神が宿るという「八百万の神」、私たちの精神風土にとても親しみやすいものなのかもしれません。
その一方では、「多様性」という言葉にも常に疑問を持つ必要があるように思います。
私は彼が、多くの弟子(兄弟)たちに囲まれながら、イエスほどの苦難を味わうことはなく、自由に生きたのではないかと思っています。
イエスにつけ、フランチェスコにつけ、常に迫害と隣り合わせに生きた人の体験は、
本当の意味においては、その個人でなければ知りようがないでしょう。
そして、何もかも己の意のままであって良いという自由が仮にあったとしても、それはむしろ苦しいものです。
信じるとはつまり、幸せを願うとともに、己の自由を制限し、あらゆる価値判断を委ねることなのでしょう。
そのような中にあっての自由というものを、私はまだ知り得ていないと思います。
私に大きな悲しみをもたらした人が、天に昇ったのかどうかは知りません。
事実、お彼岸の頃にいつも霊園に行くように、遺骨はお墓の中にあります。
でも私が、その存在を忘れていないときであればいつも、見守られているような気がします。
音楽の中にも神が宿る…。
私はいつかそれを強い確信を持って、証明しなければならないのかもしれません。
それができることなら、大きな喜びを伴うものであって欲しいです。
今少しは距離を置きながら、外側から眺めているだけだとしても。
明日、四ツ谷のニコラ・バレという会場で、NPOのグリーフケア・サポートプラザという団体が主催する「亡き人への想い」という講演会が催されるそうです。
「追悼の時」と題して、詳しくは私も知りませんが、仙台フィルのメンバーが中心となるアンサンブル・クレマチスの演奏もあるそうです。
→http://www12.ocn.ne.jp/~griefcsp/
作曲家 交響曲 ヴァイオリン(バイオリン) チェロ 室内楽