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特に音楽家はCDを集めるのがプロではありません。こちらはそういう安物がたくさん出回っているので手当たり次第に集めているだけですね。イタリアオペラは全部そうです。最近はリゴレットの実演に行くのも嫌だし。さらにDVD版などもありますね。ショルティとかパヴァロッティは面白かったですね。いつも一回聴いたらもう聴きません。いつもスコアを見ながら良い演奏だけ記憶に残っていきます。
2009年09月19日 16時12分05秒
ピアノ・スコアを片手に『リゴレット』の演奏とその指揮ぶりを想像する。「だめなやつは、2、3分で放り投げる」・・・、こんな風ですかね。
「イタリアオペラは全部そうです」とのことですが、多少、日頃より考えていることを述べさせて下さい。(所詮、愛好家のレベルですが・・・)
神童のオペラが何故にウィーンの宮廷劇場で圧倒的成功を勝ち得ることができなかったのか?と考えるとき、その大きなの理由の一つに、「詩と音楽」との関係があるのでは思うことがあります。
このことは、ショパンが晩年イギリスに演奏旅行に出かけたときに、「イギリスにおいて、芸術とは絵画・彫刻、詩・文学と演劇が中心で、音楽はそこまでの評価をまだ持ち得ていない」ということを語ったということを知った時にも、同じ思いを抱いたものです。
実際、サリエリなどが、神童がジングシュピール(「ドイツ風の田舎音楽」)にとどまっている限りは、「まあ、良しとする」とする態度をとっていたのが、本来のイタリア・オペラの世界(詩と音楽の融合芸術)に「しゃしゃり出てくる」のには我慢がならなかったであろうことは、想像にかたくありません。(所詮、神童はギリシャ・ラテン語詩の古き伝統をもつイタリア芸術における「詩と音楽の真髄」を理解できるほどの「教養人」ではありませんでしたので。)
それに比して、ドイツ音楽は楽聖以来の所謂「絶対音楽」の器楽中心の音楽だと思うのです。(当然、例外はワーグナー。)Kan-noさんは、よく「音楽」が基準であるということを書かれます。この見方は、私には「ドイツ音楽」的見方だなーと感じることがあるのですね。
イタリアオペラは「お涙頂戴」の典型的ヒロイン歌劇ばかりが、今日でももてはやされる演目だと思うのですが、さて、そこに台詞の「詩形の美しさ」を考慮する必要性はないのだろうかと考えることがあります。(残念ながら、私には西洋語学と教養の点でそれを味わうには「線香花火」が落ちるレベルに過ぎませんが。)
ともあれ、『ローエングリン』がイタリアのボローニャでイタリア語翻訳台詞による初演が行われた際に、ヴェルディはスコア片手にマリアーニの指揮振りを仔細にチェックし、スコアの最後に、
『平凡な印象。音楽は美しく、明快で思索に富むところもある。筋の運びは・・・退屈である。楽器の効果は美しい。接続音の濫用のため息苦しくなる。・・・生気は多いが、詩も優雅さもない。複雑で難しいところになると、大体良くない』
と書いたそうです。翻訳歌劇による公演ということを考慮すると、実に「皮肉な」厳しいコメントだと思わずにはおられません。
2009年09月21日 00時06分14秒
とにかくここはCDが安いので2枚組5ユーロ以下は全部買っています。もちろん全部聴きそれぞれの演奏家の違いも把握しますね。もちろんスコアを見ますと、ほとんどがカットでやりますがどの部分かよくわかります。またこの曲を何十回も通して聴くとどこが作曲的に音楽的に弱い部分かが良くわかります。この段階で筋はわかっていますのでもう考えません。もちろん実演も20回以上は少なくとも言ったと思いますが、最近は時間を節約するために行かないですね。ここにはめぼしいヴェルディやプッチーニ、ワーグナー、R・シュトラウス、モーツァルトなどのスコアは全部あります。ピアノ譜もほとんど全部あります。一応全部弾きました。
モーツァルトはどんなくだらないテキストにも完璧に音楽を付ける能力があるのですね。頼まれたら金のためにどんなものでもOKしたのでしょう。フィガロの結婚は初夜権などの官憲・貴族批判の台本ですね。もちろん睨まれましたから上演は下げられたのは当然でしょう。要するに彼は当時のとんでもない前衛作曲家だったのですよ。
ドイツ的見方でもイタリア物にも通用するのですね。リゴレットを100回も200回も見て御覧なさい。誰も筋を追う物はもういなくなりますよ。わかりきっていますからね。新演出のたびに舞台は変わりますが一目瞭然で一回見たらどんなものかわかるので2回目以降は興味がなくなりますね。最後の残るのが音楽そのものです。どれだけ記憶に残るか試しましょうか?リゴレットの前奏曲はどう始まりますか?トランペットのオクターヴのユニゾンですね。その後弦などで和音が示されます。このオペラのモティーフなのですね。前奏曲が終わって何が始まりますか?舞台裏のバンダによる宴会の様子ですね。とやって徐々に音楽そのものを知ってゆきます。イタリアではオペラに来る人はもうそれを何十回も見た人が大半ですからもっぱら関心は音楽そのものや演奏家の質にあります。筋そのものは初歩の初歩なのですね。別に毎回変わるものでもない。舞台は一回見たらそれでおわり。でも音楽は毎回違いますね。何しろ生ですから二度と同じ表現は微妙にできないわけです。書かれた音楽そのものも難しい。普通の人は音楽を聴いて譜面に書き取るのは難しいでしょうが、専門家になると音大でしょっちゅうやらされますから私たちは聴いただけでスコアがどうなっているのかが推測できますね。
当時の作曲家はみなワーグナーをつまらないと批判したようです。チャイコしかり、ブラームスしかり、ドビッシーしかりです。要するに彼はナゼレのイエスだったわけですね。現代音楽と同じですね。
2009年09月21日 01時56分19秒
先日、NHKの番組でYMOの坂本氏とお笑いタレント「爆笑問題」の対談がありました。
坂本氏が、ノートパソコンに格納している10万曲(?)位を気分に任せて手当たり次第に聞いているのだけど、最近よく聞いている曲を何曲か「爆笑問題」の二人に聞かせたところ、二人には「どこが良いのかさっぱり?」という雰囲気。
逆に、爆笑問題の持ってきた「お気に入りCD」を坂本氏に聞いてもらうと、「僕は、曲を聴くと楽譜となって耳に入ってくるのですよ。だから、いわゆる、普通の感覚で聞く音楽の鑑賞とはやはり異なるとしか言いようがない・・・」といったようなやりとりをしていました。(要は、全く噛み合わない。)
プロの音楽家の皆さんは、音楽が演奏される時と場所、演奏者によって千変万化することを「スコア」として「物象化」するというわけですか。素人には、「そうですか」としか言いようがないことですね。
私はオペラをDVDで観ると、つい映像につられて音楽を忘れてしまいがちです。特に、ショルティ指揮『椿姫』のゲオルギューなんか見ていると、「頭がパーになる。」音楽そっちのけですよ!
それはさておき、『リゴレット』の話に戻りますと、どうもお勧めはショルティーの指揮したものが良さそうですね。私たちは、ショルティーというと、つい『指輪』シリーズと考えがちですが、こちらはKan-noさんはどのようにとらえておられますか?
2009年09月21日 14時02分29秒
日本語になったようです。音楽家って盲人みたいに見るよりも聴くほうが圧倒的に優れているのですね。もちろん目も見えるのですが、ほとんど注意を払わないようです。楽譜を性格に読むだけです。後は一日中ひたすら盲人のように聴いていますね。座頭市のようです。目がぎょろぎょろしている画家などと反対ですね。いつも音を楽譜に直す作業や、楽譜を音に直す作業ばっかりしているのでこうなるのでしょう。
ショルティは何でも良いようです。モーツァルトしかり、近代物しかり、特にバルトークはカラヤン追い越して一流中の一流ですね。チャイコやドヴォルザークも凄く良いです。
2009年09月21日 17時15分25秒
『もちろん目も見えるのですが、ほとんど注意を払わないようです。楽譜を正確に読むだけです。後は一日中ひたすら盲人のように聴いていますね。』
正に、坂本氏がほぼ同じようなことを語っていました・・・。
ジョン・ケージの「音のない音楽」(?)を「爆笑問題」の二人に2分間位聞かせて、『これは音が出ていないのですよ。そういう「音楽」ですよ。』と真面目な顔で話したときの、二人の反応『エッー!それはないですよ。』歌やメロディを聴いて、「心をゆさぶられるとか、俺の気持ちもそうなんだよなー・・・」とかそういうことを感じることはないのですか、と聞かれると。『全くないですね』と坂本氏。(とりつくシマがないとはこのこと。)
Kan-noさんが、それほどショルティを評価されているとは、正直驚きました。(「確立された」とか「構築された」スコアが聞こえるのでしょうかね?)
いわゆるコンサートは、日本ではほとんどが「老人クラブ」の茶話会ですよ、正直。彼らに「お茶をふるまって」、如何にして「一期の楽しみ」を味わって貰えるのだろうか?
お話を聞くと、「夜道の一方通行」を懐中電灯をかざして家路につく人々に、『懺悔せよ、世の終わりはま近い!』と叫んでいるKan-noさんの姿が見えてくるような気がしてきました。(俺の人生「もう先が長くないよなー」と感じているひとには。棺桶の蓋が見えてくるでしょうね。)
2009年09月21日 18時36分33秒
ケージの「4分33秒」のことでしょう。
ショルティはボウがぶっきらぼうですからねえ。見るからに下手な指揮者という感じですが、ところがどうして!彼の物凄く鋭い耳にはびっくりしますよ。宇宙人的な奇怪な声での練習の厳しさも第一級です。
年配の人がクラシック談義をするにはとても良い事じゃないですか?何しろたくさん問題意識を持って考えるので惚けにくいのでアルツハイマーの予防になりますから、健康保険がそれだけ赤字になりにくくなります。おかげで実社会で働いている若い人の負担もそれだけ軽くなると思います。これだけでも少しだけは希望がありますね。これからもどんどんクラシック談義をして健康でいたいものです。
2009年09月21日 18時43分17秒
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『リゴレット』を最近、聞きなおしてみたいと思ったのは、数年前にたまたま図書館で借りたCDが「良かった」と感じていたのが、あるBlogで「名歌手を揃えた」楽しめる「リゴレット」全曲であるという評価を読んだからです。そこで、他のCDを漁ると(といっても3枚程度ですが)、やはり雰囲気の違うものがある・・・。
Kan-noさんは、プロらしく「50枚」ほど収集したとか!(驚きです)さすがに、全部は試聴されてはいないでしょうね。
それは、ともかく。これを踏まえて図書館やYouTubeで面白いネタを探してみました。
まずは、初演当時のチラシの類いにのった、『リゴレット』の中心配役像です。ジルダとマントヴァ公爵。いずれも「甘い顔立ち」をしています。
さしずめ、NHK時代劇「陽炎の辻」の山本耕史と中越典子のコンビみたいですね。
片や、リゴレットとマッダレーナは、案外イメージが外れます。リゴレットもアッダレーナも、いずれも結構「若い」感じがします。また、マッダレーナはなかなかの「おキャン」なウェイトレス風ですね。
この4人の「愛の四重唱」の場面を描いたチラシも興味深い。ジルダは本来は「旅装している」との設定のようですが、『カルメン』の盗賊団の一人のようです。リゴレットは、腕を組んで、『どうだワシの言ったとおりだろう』と親父ぶりを発揮しています。
マントヴァ公爵は、台本通り騎士の姿に変装して、ちょっと可愛いマッダレーナに「どうだ今夜ワシと遊んでみないか」と偉そうに「一時のアバンチュール」を持ちかけています・・・。
さて、これが現代演出になると・・・、いくつかYouTubeの動画を見てみましたが、視聴数20万回のネトレプコのものが「さすが!」と思わせるものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=pJMy_rv-Ix8&feature...
ネトレプコの歌声は、一度だけ上野の文化会館の大ホールから漏れ聞こえてきたのを聞いたことがあるだけです。「天は二物を・・・」なんとかと言いますが、ここに例外があると、さすがに「声が出ない」。
しかし、落ち着いてみると、私にとってはサザランドの声がやはり「若いジルダ」(15歳)らしい、初々しさを聞かせてくれるもののような気がします。(まぁ、あれこれいっても要は愛好家の好みの世界なのですが・・・)
さて、Kan-noさんのコレクションの中で、音楽のプロとして、「これは!」というものにはどんなものがあるのでしょう。お話をお聞きかせしてもらいたいものです。(Erzaelen Sie mal,Herr Erbfoerster!だったかな?)
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