Shigeru Kan-noさん
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このブログ(日記)へのコメント
パレルゴン:
さっきのラジオでブーレーズはもう指揮は引退して作曲だけするそうです。
夏のルツェルンだけで辞めるのかな?
2007年05月10日 22時18分19秒
をっ、いつの間にか自己コメントがついてますね。今、仕事の帰りにインターネットカフェでくつろいでいるところです。
つい、書きたくなってしまいました。
ブーレーズ、逆の方が良かったような気がします。作曲を引退して指揮に専念する順番の方が。
でも、その時期が20世紀末ぐらいとしてですけどね。
指揮は体力的にキツいでしょうから、仕方ないんですかね。
でも創作の泉が枯れてないか気になるところです。鬱憤を晴らすような傑作を1曲でも作ってくれると良いんですが。
では、きちんとしたのは土曜日(または日曜日)に。
短いコメントなら付けられますけどね。
2007年05月10日 22時45分51秒
Paregonは付け足しという意味です。
またインターネットカフェですか?良いですねえ!
Boulezはどうしても作曲中の作品を完成させないと死ねないでしょう。「ル・マルトー・サン・メートル」は鬱憤を晴らすような傑作ですよ。問題はこれを超えるのがないのですね。
コメントは短くとも良いですよ。いつでもいいし。こちらも短いし、長いと全部答えるのがおっくうになります。
2007年05月11日 04時54分00秒
全部答えていただかなくていいです(笑)。スルーして下さい。僕も、溜まってるのでつい出てしまうのが甘いところなんですが、そのうち安定化させます。
今回のコンサート評は、いつにも増して濃縮されてて、疾走感もありますね。知らない作曲家が多いのでついていけませんが、刺激があって十分面白く読めました。
それにしても厳しい評ですね(笑)。現代音楽が極めて厳しい世界なんでしょうけど(最先端を切り拓いてるんですから当たり前ですね)。読んでる分には連続する断言に対する気持ち良さもありますよ、もちろん。こういう書き方、少なくなりましたね。時代が甘くなってるんでしょうか。
サキソフォンという楽器が、現代音楽祭のテーマになるのが意外でした。僕にはサックスといえばまずジャズですから。例外的に1回だけFMで現音を聴いた記憶がありますけど。湯浅譲二さんだったかな?おそらく日本人の作曲家だったと思います。
これだけサックスの現代曲が書かれてるってことは(ここに出てくる曲が氷山の一角として)、マルクス・ヴァイスという奏者のような(初めて聞きましたが)、"名人"の出現の影響が大きいのでしょうか?
編曲も多いようですけど、編曲されるってことは、優れた奏者が増えてるということでしょうし。
2007年05月13日 04時13分39秒
とっち〜さんは日本人が寝ている間に書くんですね。明日は日曜日だから良いか?こっちはまだ10時20分前です。連続して中国人の作曲科のFM放送を聴いています。別のブロクに今書いておきますね。
コンサート評、厳しいですか?客観的にやったつもりですが!Sax.は従来のオケmの楽器がもう使い古されたので新しい可能性を求めてみんな書くのですね。アコーディオンや笙なんかもそうです。
サックスの作曲のコンクールなども多いんですね。一回開くとすぐ世界中から100曲ぐらいは集まりますね。
彼にようにSax.を使って現代音楽で食っている連中はそこら中の作曲家にどんどん委嘱しています。そうしないとレパートリーが少ないもんだから食っていけないのですね。いろいろありますよ。アコーディオンのためとか、マリンバとか、ヴィブラホーンとか、ギターととか。委嘱の絶対来ないのがヴァイオリンとかピアノとかもう腐るほどレパートリーがあるやつですね。
2007年05月13日 04時48分52秒
日本では、きちんとした『批判』が成立してないと思います。すぐに感情的になるように思われます。マトモな批判ができないのでしょう。だから『批評』も成立しにくいのだと思います。そういう環境に慣らされているので、つい厳しいと思ってしまうんですね。
正直、文科系の学者や研究者の責任が大きいと思います。その周辺も含みますが。数年前に最近の潮流を覗いて見ようと思って、インターネットとか印刷物とかを大雑把に流して読んだことがあるのですが、70〜80年代の悪いとこはきちんと残ってました。ある意味、増幅されてるとの印象も持ちました。相当堅固です。(^^;
自然科学や技術の世界だと、原理的にもシステム的にも、批判精神は機能しているのですが。端的に言えば、再現性をとる実験をして、結果が違ってたらそれは違ってるのです。理論的におかしかったらそれはおかしい。先生が偉いとか人間関係とか全く無関係です。原因の探求とかはそこからなので、どちらが正しいかの判定は先の話ですが。文化系はここかなり弱いですね。
理系でも先端的な研究者の間での感情的ないさかいはあるはずです。でも、大勢には影響を与えませんね。ただ、あまりにも細分化が進み、高度化されているので、客観的に評価できる人間が少なくなっているようです。そのため、かなり深刻な結果を生むこともあります。
現代音楽では、笙にまで音を求めているのですか。宮内庁式部職楽部にまで手を伸ばしてるんでしょうか?中国ですか? 武満徹の『秋庭歌』を思い出しました。今時の作曲家は使い方が全く違うのでしょうが。
マリンバは70年代にもありましたね。あの頃、打楽器が猛烈に発達したようにも記憶します。
ギターも若干あったと思うのですが、現代音楽のイディオムはさほど含まれてなかったように思います。最近の曲を聴いてみたいですね。
でも、レパートリー増やすために演奏家が委嘱するのですか。例は知ってましたけど、そうしないと食っていけないとは厳しいですね。
2007年05月13日 17時22分28秒
日本の批評家はほとんどすべて才能的に音楽家になれない人が、感情的になって腹いせに音楽家になった人の悪口を書いてあるだけです。言葉は達者なのですが音大も出てないので全くの専門家ではありません。素人に毛が生えたようなものです。
スポーツは勝ち負けで、理科系はそれが正しいか間違っているか数字などではっきりとわかりますが、文科系はそれがないので必ず混乱してしまうのです。何をもって良い曲か美しい曲かは人によってさまざまで、ほんとは評価のしようがありません。でも何かしら評価しないと人は来てくれないし関心も持ってくれないので何かをそれについて言うわけです。ただ問題点は日本の場合は専門家がじゃ無くて素人がやっているのですね。そこが恐いところなのです。手術するときの医者が素人だったらとてつもなく恐ろしいことでしょうが、音楽界はそれが通用してしまう恐い世界なのです。
笙は最近欧米の作曲家の作品が多いですね。でも音はアコーデイオンと同じで可能性は劣っていますので、関心はその音その物というよりその奇妙な形にあるのでしょう。ギターは現代音楽専門の奏者のところに行かないと音源も楽譜も手に入らないくらい小さな狭い特殊な世界です。
普通の委嘱作品でも99%は残りません。でも普通の一晩のコンサートをうめるには実質80分のプログラムはこなさないとお客さんは納得してくれないでしょう。一曲10分として8曲はそろえないとだめです。それがすべて委嘱作品で残った音楽として単純に800曲は書かれた勘定になります。
2007年05月13日 17時29分03秒
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ケルン・トリエンナーレの一貫で芸術ステーション:サンクト・ペーター(教会)でのサクソホーンによる連続コンサート。形式はWDRの土曜コンサートと同じで解説同時FM生中継である。
古い廃墟になった教会の建物を利用して現代音楽を催すという形は、殺風景だが音響が良いと言う点でスイスのボスウィル村のコンサートと似ている。今年のケルン・トリエンナーレのテーマはルチアーノ・ベリオ=即興演奏=中国の作曲家たちというテーマなので特に新しくもないのでこれ以上他の演奏会は行かない。サクソホーンをテーマとするこの企画は、三つの四重奏曲を同時に呼びサキソホーン・オーケルトラも作り一緒に合奏もさせる。「アリアーゲ・サキソホーン四重奏団」・「サクサンブル」それにボスウィルで僕のサクソホーン独奏曲の初演を超難解として拒否し代わりにクラウス・フィスターにバトンタッチさせた世界最高のサクソホーン奏者に数えられる世界で一番上手いとされるマルクス・ヴァイスが作って演奏する「クササックス」が登場。更にソリストとしてフランスの女流ヴィオラ奏者ヴェネヴェーヴ・ストロッセが賛助する。
8時からの第一次コンサートではスティーヴ・ライヒの有名な「ニューヨーク・カウンターポイント」の11人のサックス・オーケストラの為の編曲から始まる。いろいろと避難されるミニマル音楽だが、セリエル音楽の間に挟み込むサンドイッチ・プログラムにはもってこいの音楽である。グラスのように単純ではなくてこの頃からジョン・アダムスのようにミニマルが少し飽きないように細工した跡が伺われる。でも実際に売れるのは皮肉な事にグラスのような手を抜いた音楽である。次の1992年に死んだ作曲家のジョン・カリーシの第一サックス四重奏曲は古典的なこうあるべきという模範作品。三曲目のジョージ・アペルギスはジャズやロックへ逃避し結びつくので何かしらとヤニス・クセナクスと比べてしまうので期待してなかったのだが、Sx.とヴィオラのための「Rasch/急速に」は現代音楽として聴き耐えるものだった。次のドナト―ニの「Rasch」はカルテットだがこの人の様式はいつでも巨匠化していてメシアンの個性に引けを取らない強さである。最後のまたアペルギスの「クロスウインド」は4人全員にトランペットの歌口で吹かし、声も伴うれっきとした現代作品。こういう奏者のみが現代音楽の分野では正規の奏者として通用する。
午後10時からの第二弾はリゲティの「バガテレ」から始まる。もちろんサクソホーン四重奏の編曲である。色彩感覚は少し後退するが音が大きいのではっきりとその内容が決まる。それにしても同じ作曲家の「10の小品」より遥かに演奏頻度が高い音楽である。次のテュールの「ラメンタシオ」は長いマルチトーンによる音楽でその倍音の配分を制御するのがとても難しい。シェルシの「マント」はヴィオラ独奏で各弦一本づつに一段と計四段の5線譜に書いてある。最後の第3楽章は読経に似た声が吹かされているがストロッセは上手く歌い上げた。クセナクスの「クサス」はどこでも演奏され放送される作品。自分もどこで聴いたのか忘れるくらい頻繁にかかる。とにかくこの曲は煩いのでバイロイトのオケピットに埋めてやりたいくらいである。ケージのFour5は12のサックス版。4つずつ三つに分けて空間音楽化したスコアがなく12分の中で自由に奏してよい音楽がパート譜に収められている。最後のフランチェスコ・グェレーロは1951−1997の生涯で若死にの作家。「Rhea/レア」(1988)は12のサックスの為だが、ドロドロした音楽で記載の12分より短く感じた。
作曲家 指揮者 現代音楽 ピアノ 交響曲