Shigeru Kan-noさん
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オペラは大規模なので、素人判断でも大変な人的・資金的・時間的・場所的なリソースが要りますね。作曲家がオペラに向うのは、言葉による表現を用いたくなるのと、演劇性を追求したいということもあるのかなと思ってます。
現代物でも、聴衆は大規模さに見合う壮大で劇的な表現を求めているのでしょうか。
芸大や音大が強靭な個性を伸ばす教育をしているとはイメージしにくいですね。実態を知らないので「してない」とは断言できないのが弱いとこですけど。(^^;
少なくとも「後世に残るような音楽を書かせるといった使命」感は無いでしょうね。課題をこなせるのとは本質的に違うんですけどね。
僕が興味を持って聴いていた作曲家は非芸大、非音大が多かったですね。途中で気付きました。
彼ら、訴えるものが大きいし、自分で真剣に追求し、開拓していることがこちらにも分かりますから。通俗的にでは無しにですが。
その部分って、素人にも伝わるんですよ。何か分からんけどすごいな、という程度でも。僕は結局はそこんとこで聴いてましたから。
いかな先鋭な芸術家といえども同時代人ですしね。時代の問題には同じように晒されている。そこに感覚と知性と技術と精神とでもって斬り込んで行ってもらうのが、先端的な芸術家の大きな役割だと思ってます。
それを巨大な個性や強靭な精神力でやってもらわないことには、結局は一般人も困るんですよ。世界が切り開かれないと後が無くなってしまうから。
ここに挙げられてる二人=クセナキスと武満にしても、彼ら、未知の音楽の世界を切り開き、豊かにし、可能性を拡げたと思います。そのことによって、音楽以外の世界をも豊かにし、可能性を拡げたと思います。
美術の領域だけど、ヨーゼフ・ボイスが大学で教えてた時、テクニックなんか教えてなかったでしょう。誰だったか若いアーティストが教えを請いにその大学に入って、ただ話だけをして美術に関わることは何も教わらなかったとか。ボイスがそんなことを教えるとはとても思えないので納得ですが。
僕はボイスは良く分からないのですが、この教え方には感動しました。それができるのがボイスだったのでしょうが。極端な例ですが、芸大も真剣に考えて実行しないと、存在価値を無くします。
学生の作品が実際の音にならない問題は、70年代にも聞きましたよ。これはダメだなと思いました。今でもそうなんですか。
小編成ならなんとでもなるでしょうが、オーケストラ曲を書いても生で聴けないのなら進歩のしようが無いですね。意欲も失うでしょう。
大規模曲ってことですけど。ましてオペラなどは。
そういうことに税金を使うのは賛成ですね。というか、重大な片手落ちです。目的を忘れて肝心なところで資金をケチってると何も生みません。学生の愚作が山のようにできないと、突出した作品も出てこないでしょう。それは演奏して初めて分かる。失敗したかどうかさえ分からないのは最悪です。
芸大、音大の運営費、人件費などを含めてですが、総費用と比べるとオケをやるぐらい大き過ぎる金額ではないと思います。毎日やるわけでもないし。
2007年05月21日 01時44分41秒
現代オペラは大きいのもあるし小さいのもありますね。今ボンでピーター=マックスエル・デイヴィスの「シンデレラ」もやっているのですが、大劇場じゃなくて小さいライン川対岸の小さな劇場です。行く時間あるかな?いまFMで大野君のサン=サーンスの「サムソンとデリラ」やってますね。彼驚くほど音が完璧で音が粗雑じゃないんですよ。あのブリュッセルのオケがカンブレランの時はアマオケのようにひどい音だったんですが。
日本の音大のやり方って日本の会社組織そのものですね。ほんとにちょっとでも道をはみ出したら金槌で打たれますよ。それに理論がやたらと厳しいし、コレじゃ最も大切な個性は伸ばせませんね。何か邦楽のように和声学だけの習得に50年ぐらいかけるつもりでいるのでしょうか?日本はどこでも助教授から準教授に看板を架け替えていますが、こういう事って日本は全ての分野にあるのですね。談合や原発事故隠しもまだまだ続くでしょう。絶対終らないです。何やっても絶対徹底しない社会が日本でしょう。
ロシア5人組はかなりが素人だったでしょう。芸大から和声学の教授を1000人出すよりも、芸大無しで素人の世界的作曲家が5人出したほうが絶対実りがありますね。
2007年05月21日 04時43分51秒
言われて5人組を調べました。全員芸大・音大とは無縁ですね。(^^;
しかも、全員が理科系か軍人ですよ。軍人ってのは技術者ですからね。確かに論理性が無ければできませんね。ここまで見事とは。(^^;;
いや、異論無いですよ。知ってる範囲では、芸大出で現代音楽の作曲家として名が通ってるのはごく少数ですし。Kan-noさん言う「素人」で重要な仕事をしている作曲家の方がはるかに多い。後者の方が歴史に残る確率ははるかに高いのは、誰の目にも耳にも明らかです。
和声学の教授も対位法の教授も要らないでしょうね。ま、何人かはいても良いですけど。知識のデータベースになるし。
でも和声学って、よく槍玉に挙げられますが、古色蒼然たる膨大な体系なんですか?博物学とか分類学みたいな。良い例が浮かばないんですけどね。
それより、芸大や音大には、戦後の音楽史をなぞるような授業ってないんですか?
セリー・アンテグラルなど避けて通れないと思いますが。主要な現代作曲家の技法を徹底的に分析して、再構築して曲を作る演習とかもないんですよね。先鋭な作曲家の作曲思想を学ぶとか。
そういうの通過しないと、自分が独創的なのかどうかさえ判断できないと思いますね。
理系の研究者たちは(僕は違うけど)同じ分野の他の研究者の論文は全部読んでますよ。ライバルに先を越されたら、同じことはやらない、できない。第一論文を出せない。恥をかいて学者生命終わりです。
芸術は創造するものだから異なる面が大きいとはいえ、独創性への態度としてどうかと思いますね。
2007年05月23日 23時07分25秒
2007年05月24日 06時38分55秒
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最近現代音楽が多くなりオペラが手薄になったので、ケルン・トリエンナーレを無視してオペラに行く。ムソルグスキーの3番目のオペラは喜劇。昔プフォルツハイムで見損なったので、今度こそはと狙いを定めて行ってみた。ソリストはすべてローマン・コーフマンがウクライナから連れてきたらしくすべてロシア系。アトラントフやオブラッソワとは行かないまでもそこそこの水準。強靭なロシア風テノールも健在。台本の舞台もウクライナ。ここにいて本場の歌手でのロシア語上演なのでありがたくなくはないが、ほかのドイツ物やイタリア物もこれでやられると閉口してしまう、ヴィッサーリオン・シェーバリンとパヴェル・ラム完成版による上演。3幕だが、聴衆が帰らないように休憩を少なくして2部構成による演奏。35分、45分、30分、計1時間50分の短い作品。
台本はゴーゴルの原作による作曲者によるオペラ化。演出のトニー・パルマーは現代的テクニックを持ってしても衣装はあくまでも原作にこだわった仕様。こういう珍しいオペラで背広を着て出てこられたらたまったもんではない。「フィガロ」や「オテロ」だけで十分である。
この曲はあの交響詩「禿山の一夜」からの素材が特に第三幕でふんだんに使われていて親しみやすいのが特徴。アバドや良くやる「原点版」よりもリムスキー=コルサコフ版の「朝の情景」がかなり入っている「改訂版」の交響詩に近い。ただ3幕の終わりは民族舞踊になっていて、モーツアルトの「イドメネオ」と同じく最後まで規模の大きい声楽がないと構成的に失敗してしまうのが難。自分もその昔規模の大きい声楽曲でピアノの後奏を延々と続けて失敗したことがあった。この音楽もその典型。オーケストレーションも薄っぺらで舞台の足音の方が大きくどんな音楽をやっているのかあまりわからない。ピットはバイロイトばりに深くしてかなり覆い隠したがここだけは上に上げて前面に出すべきであろう。
実際の上演は大規模で舞台裏のオーケストラやバレエ・児童合唱などで相当の予算の出費がなされている。さすがに舞台オケは中小の歌劇場はどこでも最近やるようにあらかじめ録音しておいて後で生のピットのオケとくっつける方法を採用していた。したがって生で舞台に出るのは4人の「朝の情景」の旋律をモノローグで吹く楽器奏者だけである。
「ボリス・ゴドウノフ」や「ホヴァンシチーナ」と同じく、この「ソロチスク」も「死」が大きなオペラのテーマになっている。ムソルグスキーの強烈なその独特な音楽はチャイコフスキーのオペラを凌ぐ。ボロデインもそうだが、作曲家のもっとも大切な要素はその専門教育よりも、個人による強い個性である。現代でもクセナキスにメシアンが和声学や対位法を与えなかったのは正しかった。日本でも長らくアカデミズムによる弊害が常に指摘されているが、まず改まる様子はなく、トップの音大はただ単に入学試験が厳しいことにのみ目的が集中し、肝心のこういった後世に残るような音楽を書かせるといった使命には相当疎い。最初から書けないものとあきらめているようなふしもある。結局のところ武満徹のような非音大出身者が、強大な個性を示し世界的に通用するのは当然の成り行きだといえる。こういった点で日本の音大は国費による補助の無駄遣いにすぎないのではないか?入学試験がどうのこうのというより、それらの学生の作品を一つでも二つでもオケなどで音になるように、国の補助を使うのが将来への遺産にかなっているのではなかろうか?
菅野
作曲家 指揮者 現代音楽 ピアノ 交響曲