Shigeru Kan-noさん
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このブログ(日記)へのコメント
2007年06月28日 14時33分31秒
2007年06月28日 18時01分55秒
Kan-noさん
>少なくともコンサートなど行くにはプレトークとかプログラムを買って、どう作曲されているのか、あらかじめ読んでおくということが必要になります。
確かに、今手元にあるプログラムを読むと作曲の背景は判る気がします。
しかし、音楽を聴く”感覚”が受け付けないです。
わたしも色々な語学をやって来た積りですが、語学の習得は暗記にあると思います。
ですから、「語学は暗記ではない」は、噴飯物と携えております。
おっと、語学習得の話ではないですね。
やはり、専門的に音楽を収得した人としない人の差ではないのかと思いますが…
2007年06月28日 20時52分35秒
耳の訓練も必要ですね。
無調になれるとか?
これだけは40過ぎてから外国語をやっても無駄なように若いうちから親しまないと駄目です。
音楽と語学はTetsuyaさんのとこに書きましたが相当似ています。
暗記すればそれだけわかりやすくなります。
この場合だけは記憶ということが非常に重要になりますね。
2007年06月28日 21時25分51秒
>耳の訓練も必要ですね。
同感です。
物になるかどうか判りませんが、無教会派と呼ばれる集団は、”聖書”原典を読む事も厭わない人々もいます。
”聖書”に関しては、色々な訳が出てますので、ある意味、答えのヒントみたいなのが有りますが…
音楽に答えは?
2007年06月28日 22時28分46秒
僕は音楽は言葉で語らない真実を語る芸術と解しています。
耳の訓練は鑑賞の場合、聴音などのように書き取るまでいかなくても大丈夫ですが、良くあるパターンは熟語のように知っていた方が理解は楽です。
聖書はまずプロテスタントとカトリックに於いて使う部分が違う。ユダヤ教は旧約だけ。イスラム教は旧約と福音書を含めたコーランといろいろあります。更に訳が違ってこれに違った解釈がされると致命傷ですね。余りすれだけに頼ると原理主義的になりやすいかもしれません。この前こっちのTVでやってましたがアメリカはキリスト教原理主義が多いですね。イスラムに対抗してやっているみたいで、爆弾は特に仕掛けませんが、モルモン教などの一夫多妻で子供たちがみんな知恵遅れの村や町があるそうです。法律に違反しているのですが、全部捕まえて刑務所にいれると町に住民が全員いなくなるのでできないそうです。原理主義も程々に!
2007年06月29日 04時18分25秒
福音書に出てくる、”バプテスマのヨハネ”をご存知かと思いますが、彼は、”エッセネ派”と呼ばれる集団を形成していたと言われますが、皮をまとい、いなごを食べて・・・生活していたと書かれていますが、米国では、その生活を地で行く集団が現代にあります。これなど良い例かと思います。
何事もほどほどに・・・
謝謝拝啓
2007年06月29日 13時34分28秒
最近の研究によると若いころのイエスも一時エッセネ派にいたようですね。
ヨーロッパはとにかく子どもが生意気で騒いで、酒飲みが多いです。聖書でイエスがそうさせているから一般人は「善」だと勘違いしているようです。子どもはいくら自由にさせようとも危険にさせては行けないです。酒も程々に!
2007年06月29日 17時06分36秒
ゼーロダイ(熱心派)に属していた説もあります。
宗教改革者ルター(ルーテル)は、「牧師は説教が終わったら2階に上がってビールでも飲んでれば良い」と言ったとか。
イエスの譬え話の多くは”神の国”の事を言ってるので、そこの所を勘違いしてますね。
”見ないで信ずるのは、幸いである”これが難しいのですね!
2007年06月29日 21時45分03秒
いろいろな人の研究によるといろいろな宗派に属していた可能性があるそうです。
聖書ってある意味で恐いのですよ。そのとおり実行する人がいるからです。あの書物はかなりの部分が比喩・例えと見ないと理解出来ないですね。創世記で普通は人は土からは直接生まれないで、土の成分から肉体ができているとか科学的に理解しないと、現代人にとってはなんか単なる夢物語の神話のようです。創世記の7日は多分70億年以上の時間かもしれません。当時は1000人以上の人間は多すぎて数えられなかったそうです。だったら70億なんかはもっと無理ですね。
酒を飲んで悪いわけでは特にないのですが、それでアル中になり罪を侵すようになるのが恐いのですね。酒は一旦覚えると煙草みたいに止められなくなりますし、でも風邪をひいたときには酒は体を温めるので良いとか?
「見ないで信ずるのは、幸いである」の問題は特にカトリックがそうですね。中世の人は文字が読めなかったので、わかり安いように十字架やマリア像などを沢山作っちゃって、それ内部はそれほどでも問題でもないのですが、そういう「物体」がきっかけになり日本では『踏み絵』で多くの信者が亡くなりましたね。そういう欠点があります。あの当時カトリックではなくてプロテスタントだったら死なずに今も生き残っていたかも?
2007年06月29日 23時31分37秒
神学者ブルトマンは、大事なのは、イエス、あるいは聖書と自分がどう関わるかだと主張しました。
つまり、奇跡とかイエスの喩え話は、自分にとって”真実”になるかは、自分次第という事です。
ブルトマンは、実存哲学的に信仰を考えられないかと模索していた。実存哲学者ハイデガーの同僚であり友人であったのです。
当然、ブルトマンは、ハイデガーの影響を受けたのでしょう…
弁証法的…止めときましょう。
とにもかくも「聖書」の受け止め方は、各々が決めることでしょうね!
ただ、その受け止め方に問題があると考えてます。
2007年06月30日 09時16分36秒
教義を完全に統一するのはカトリックですが、あれだけ大きな団体が戦争反対などは効果的なのですが、なにしろ「普遍的教会」なので、教義を変えたらカトリックではなくなるので、中世風に女性司祭はだめとか、司祭の妻携帯はだめとか、コンドームはだめだとかでアフリカでエイズがどんどん広まっているので自己矛盾に陥っていますね。
それに比べてプロテスタントはバラバラで教義がないわけではありませんが、まとまりがないので社会的に大きな意見にならない短所がありますね。
どちらにしても一長一短ですがそれらをどう選択するかは、すべて個人の判断に委ねられていると思います。
2007年06月30日 17時09分58秒
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1925年にベルリンに生まれたヘルベルト・バウマンの「動物のお話」は特に子供用の音楽ではない。ギターとフルートと歌のための作品だが、ブーレーズやベリオなどひしめく前衛同世代では完全に問題にされない音楽様式である。どこにも保守派はいるものだが、ここでもそれの典型に過ぎない。ヘンツェがラッヘンマンとの1983年のシュトットガルトでの対話で『作曲家が加味と鉛筆を貰ったら自分の書きたいように書いて良い』という言葉がそのまま生きてくる。定型的なバイエルン保守主義の音楽である。好感はすぐもたれるが生き残っていくのは極めて難しい音楽と思われる。
次のリヒャルト・マーダーの「アルトとバリトンの二重唱」作品57はピアノ伴奏つき。作曲者は1930年にミュンヘンに生まれている。様式としては前者と全く同じでただ作曲したい欲求のみで作った音楽なのであろう。極めて自己満足的な音楽でここに問題意識は全く存在しない。こう言った「現代音楽」を歌わせる場合、良い歌手に巡り合わせることが出来ないのは覚悟の上、何とか「歌わせない」方向に持っていけないものだろうか?長三和音もちゃんと入っている。
その次も同作曲者で「ペルシャの詩による四声のマドリガル」作品46bもピアノ伴奏付きである。ピアノは万能に近い楽器であるが、いつも登場しやすいので必ず音響素材の問題が出てくる。4人の歌手全員は男性である。古風ではあるが無数にあるレパートリーの一つでしかない。ポリフォニーの水準は少なくともリゲティの概念でないと今日では生き残れない。アカペラでも演奏可能とか書いてあるがどうでもいいと思われる。
エルンスト・クッツァーは1918年にミュンヘンに生まれた。「フルート・ヴァイオリン・ヴィオラ・コントラバスの為の9つのアフォリスム」作品107は、ロマン派の生まれ変わるのような音楽である。これをドレゼケやラフの作品と虚偽を書いても気付く人は誰もいないほどロマン的である。柴田南雄に言わせると「西洋音楽演習」に属する様式模倣音楽である。幾100万ある美しい音楽たちのたった一つに過ぎない、多楽章のバレエ音楽のようである。クラシックと近代音楽様式の混合は音楽の曖昧さを更に助長する。
次のリヒャルト・へラーは1954年ウィーンに生まれた、今は昔のウィーン製の教育を受けた作曲家であるがフランス風なのは本人の趣味なのであろう。ヴァイオリンとチェロ・ピアノの為の「ノヴェレッテ」の和声はメシアン風であるがそれ以外はどの方向に行くのかは極めて曖昧でごっちゃ混ぜである。こういう形も幾多と日本人の作曲家まで聞かせてもらった。完全に自己流と思っていてもある特定の語法や作曲家が好きな場合、結果的によく模倣という危険な形になるものである。あたりまえのピアノのソロのカデンツァもあってはならない。
最後のアルフレード・ゴードマンは1920年にベルリンに生まれる。金管楽器の為の「アクロス・ザ・ボード」はアメリカで勉強したらしくかなり厳しい音楽にはなっているが、あの国で勉強するとその作曲者の国籍や個性が否定され、博士号を持っていてもポピュラー系の逃げ道を逃れる事は出来ない、何のための現代音楽なのか意味をなさない事が多い。ジャズをやりたい場合はジャズそのものをやるべきであろう。今更混合しても今日では全く珍しくないので印象に残らない事が多い。
以上、前衛ではないがきわめて愛すべき美しい音楽の数々を聞かせてもらった。こういう音楽は人が思っているよりも、今でも世界各地で信じられないほど多く生産されて入る事を確認できた。
菅野茂
作曲家 指揮者 現代音楽 ピアノ 交響曲