Shigeru Kan-noさん
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このブログ(日記)へのコメント
これ、論理的な構文に体系化されているので、とても読みやすいです ニン!
私、埋もれすぎて窒息しそう・・・「すいか」・・・食べたい
ではまた。
2009年07月11日 06時36分03秒
これは「クラシック音楽の喋り版」のコピペです。こう書かないと誰も興味持ってもらえないし、読んでくれません。これにはあるまじろさんの質問が付いていましたが省略されています。
家スイカ冷蔵庫に入っているよ。メロンもいっぱい入っているなあ!寒くて食べられないね。明け方10度いかないのだよ。日中も15度ぐらいか?とにかく寒くなった。
2009年07月11日 17時10分37秒
続きです。
1.レコード会社ではありません。まず最初に評価したのが、専門家です。ダルムシュタットやドナウエッシンゲンですね。聴衆はみんな酷い・酷いといってブーか喧嘩の嵐でしたね。それから彼らの更なる委嘱を与えたのがドイツを初めとする放送局たちです。彼らの評価の指針がもちろんその革新性にある事は疑いの余地がありません。いやゆる音楽的に良くできた曲というものは無数にありますからそんなのは聴衆やレコード会社に任せておけばマイケル・ジャクソンのように自動的に有名になって食っていけるのですね。ところが放送局や現代音楽研究所の仕事はそれとは別にあります。一時的に人気があって食える曲ではなくて恒久的普遍的に残るような曲を研究して発掘するわけです。だからダルムシュタットがかつては世界中の作曲科の教授を集めていろいろな研究成果を集めて何十年も嫌というほど人種世代を超えて議論してきたわけです。
2.例えばシュトックハウゼンの作品1のコントラプンクテやブーレースのル・マルトー、ノーノの中断された歌、ケージの108、フェルドマンのコプトの光、ツィンマーマンの兵士たち、リゲティの大気、シュネーベルのAMN、クセナキスのノモスγなどなど無数にありますがみんなとても素晴らしいんじゃないですか?みんなしっかりと残っていますよ。全部将来市民権を獲得するでしょう。まだ認められないのはそりゃ難しいし、一般の人はまだちゃんと知らないだけなのです。でもBPの定期や放送響の定期の一曲目はいつもみなそういう曲たちで埋めますね。もちろんそういうものをちゃんと指揮できる指揮者陣しか客演で呼びません。昨日書いた近代音楽たちはもうその研究成果が完全に認められています。ドビッシーの牧神、バルトークの弦チェレ、ストラヴィンスキーのダンバートン・オークス、ベルクの室内協奏曲、アイヴスの交響曲、ヴァレーズのオクタンドル、などなど多数。これらを知らなければそれ以上喋っても無駄ですが、アメリカも含む世界の音楽界はこういうレパートリーを中心に毎シーズンプログラムを組んでいますよ。日本はどうなっているのか知りませんが。質は古典やロマン派などと全然変わらないですね。それを疑う人を見つけるのが難しいくらいです。今日もラジオで言ってましたね。「春の祭典」の初演は27人が音楽でないと喧嘩して負傷して病院に担ぎ込まれたそうです。なんと幸せで原始的で素朴な時代もあったのですね。今となってはとても懐かしいです。
2009年07月12日 03時11分27秒
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1.もちろんそうです。その流れを汲みます。しかし西洋音楽は過去の音楽を土台にしながらもそれを否定して絶えず壊して作った音楽ですので反対に聴こえて当然です。私たちがなぜベートーヴェンを学ぶのかはその音楽家を良く知るということもありますが、実際の作曲行為においてはそういうことは消してやってはいけないという戒めでもあります。
2.既に近代音楽はなっていますね。「春の祭典」・「ボレロ」・「ピエロ・リュネール」なんかは当時は時々作曲者までもが音楽ではないと宣言していたくらいですからねえ。今はないと客が来ませんね。例えばシェーンベルクなんかは音楽を12音化するのに余り理由を考えなかったのです。それを完全に理論化したのは戦後で音楽学者のアドルノです。アイヴスやスクリヤービン・バルトークなんかもなぜ無調に入ってしまうのか理論的に自分ではわからなかったようです。ただナチの強制収容所やスターリンの大粛清・広島の原爆の風景を見ていると無調の音楽が出てこなければならなかった理由が良くわかります。
3.音楽を譜面に書く技術ですね。それを音楽学校では学びます。勝手にメロディーが湧き出てくる人は日本には残念ながら余りいません。そういう教育がされていないのです。代々の大作曲家は即興演奏の大家で有名ですね。モーツァルトが3日でリンツ交響曲、ロッシーニが2週間でセヴィリアの理髪師がかけるにはそういう技術・才能が必要だからです。要は天才が出てくるにもその下敷きにある音楽への接し方に関係するのです。僕も今あるまじろさんの質問を見てすぐさま即興的に的に書いていますが、必要なのはこの技術です。もちろん喋った方が早いのですが、音楽も同じです。ピアノやオルガンでフーガや変奏曲をその場でつっかかないで喋れること、それが即興の技術です。作曲はただそれを譜面に書くことだけです。もちろん言葉だって文法があって一応規則どおり組み合わせなければ意味が通じません。音楽も同じです。もちろん調性なら調性の文法(和声・対位法・楽式等)があります。12音なら12音、色彩和声なら色彩和声。その文法を習得し練習すればまずは言葉と同じように早口でも音楽で喋れるようになります。しかしこういう勉強は外国語と同じ要に若いうちだけ可能です。
現代音楽は普通は新しい音響の研究所のようなものですね。物理学の発見と同じくいつも研究室に篭って何かを発見しようとしている行為に似ています。それの典型的なものが僕もテープの切り貼りから始めました電子音楽です。現代音楽はこの経験無しでは全く書けないでしょう。メロディーやリズム・和声・ポリフォニーを完全に棄てきりますからねえ。
もちろん現代物は理解が難しいです。どの音楽にも文法があるのですが、クラシック時代は誰にでも理解できる万国共通語の英語のようなものでしたが、現代音楽は完全な自由が認められているので、誰がどんな語法:自分が勝手に作った文法でも良い、を使ってもかまわないのです。アラビアンナイトだって日本語や英語だったら理解可能ですが、原書のアラビア語で読まされたらわけわかんないですね。それと同じです。作曲家の個性を強く出すためにその自由を認めるのは仕方のないことです。
作曲家 指揮者 現代音楽 ピアノ 交響曲