Shigeru Kan-noさんのブログ(日記)〜クラシック音楽の総合コミュニティサイト Muse〜

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べーム指揮のベルクの「ヴォツェック」、ウィーン国立歌劇場

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これはDGから出ているベルリンドイツオペラとは違う録音で1955年の歌劇場でのライヴである。ハンブルクのライン・ミュージックのレーヴェルでモノラル8,99ユーロと少々高いが、それだけの価値は充分返ってくる名演である。

これで驚嘆することはオケの演奏もさながら、歌手の出の正確なことである。既成の現代の指揮者:ドホナーニ、バレンボイム、セーゲルスタム、ブーレーズ、ケーゲル、メツマッヒャー、カンブルランらのどの録音(仮にそれがスタジオ録音であってさえも)よりも遥かに勝っている。

この録音の特に素晴らしいとこは第二幕で何かの手違いか、マリーが出てこないことである。しかし歌劇場のオケは中断することなく十数秒ちゃんと待っている、さすがは常に世界トップにある歌劇場のオケである。

 作曲家 指揮者 現代音楽 ピアノ 交響曲


日付:2009年10月04日

7件のコメント

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このブログ(日記)へのコメント

Az猫ロメ

 Kan-noさんに、聞きたいことのひとつとして、現代のクラシック音楽の「トラウマ」志向について、なぜなのかその理由を聞きたいものです。

 「ヴォツェック」に限らず、どれもこれも「ネクラ」な音楽のような気がするのですよ。マーラーにしてもショスタコービッチにして、20世紀以降の作品は音楽的には相当のものなのでしょうが、99%の「世界の国民」は、偉大な作曲家の「王様のロバの耳」に呆れるほかない状況に陥っている気が致します。(正直のところ・・・)

 日本の近代医学の世界では、明治以降「知らしむべし、寄らしむべき」とする、医者は聖人=患者は無学文盲の徒とする、封建的ドグマが支配的でした。近年は至極当然のこととして、こうした傾向は徐々に患者主体の医療が望ましいとする「世界の医学界」の常識に移行しつつあると思えます。(それでも「名医」は神様ですけどね)

 「クラシック音楽」は、現代の歌と踊りをビジュアルに統合したポピュラー音楽にとうの昔に「ミュージック界の王者」の地位を奪われていることは言うまでもありません。

『それなのに、それなのに・・・、どうしてマルガリータ姫はいつまでもベルサイユの「黄金の百合」に固執されるのでしょうか?』

 ドイツでは、現代音楽の普及に「公の支援」があるようですが、「素晴らしい!」とは羨ましく思いますが、現代音楽と一般大衆(特に若者)との間に存在する「北極の大クレバス」の如き溝にどのように目を向けようとしているのでしょう?
 
 「バケツでお湯を注ぎ込もうとしているのか、地球温暖化によって、世界が水没するのを待っているのでしょうか?」どちらなんでしょうね。

2009年10月05日 09時39分45秒

Shigeru Kan-no

それはクラシック音楽を産業としてみた場合でしょう。日本ではそうですが、ここでは産業ではなくてあくまでも芸術ですね。ミュージカルは娯楽ですが、クラシック音楽は全く娯楽ではありません。芸術は芸術で何よりも優先して独立しているのですね。現代音楽はその最たるものでしょう。

このヴォツェックはその貴族趣味の最たるものではありません。グルックやモーツァルト時代の貴族物語とは全く関係がない、人生の悲劇のどん底を見事に描いた作品でしょう。まずこの物語の台本を読んでください。こういうめちゃくちゃな物語にかつて全面的に無調の音楽を付けた人がいるでしょうか?

この曲は非常に難解です。「春の祭典」120回の練習で初演したのに対して、この曲は150回の練習で初演にこぎつけました。とてつもなく物凄いお金がかかります。これを経済的な無駄と考える人は牛馬の世界でしょう。そこに餌があるかどうかだけで人生を判断するようなものですね。日本人の大半はそうです。ゆがんだ教育の影響でしょう。もちろんここには物理的な餌は一つもありません。しかし精神的な餌の宝庫でしょう。だから常に上演するのでしょう。今はコブレンツでかかっていますね。交通機関が上手く行かないので見にいけないのが残念です。

2009年10月05日 17時01分51秒

Shigeru Kan-no

デットモルトの作曲家:ギゼラー・クレーベが死去84歳。
Giselher Wolfgang Klebe (* 28. Juni 1925 in Mannheim; † 5. Oktober 2009 in Detmold) war ein deutscher Komponist.

2009年10月06日 01時11分55秒

Az猫ロメ

Kan-noさんが「芸術」に打ち込める環境におられることは幸いだと思います。
 レコードプロデューサーの草分けのW.レッグの伝記を読むと20世紀前半はクラシック音楽界の黄金期であったことがよく分ります。
 現代は、一流の指揮者、楽団をそろえて作り上げたCDが全世界で千枚しか売れないことが起こる時代だそうです。
 東国原宮崎県知事ではありませんが、『こげんせといかん!』という世界的視野を持つ音楽プロデューサーが現れてほしいものです。
(私だったら、来年の生誕200周年記念のショパン・コンクールで中国及びブラジル出身のピアニストを優勝させ、新興国にクラシック・ブームを起こさせる「ヴォツェック」的な「汚い手」を使うかもしれません・・・)

2009年10月06日 09時56分35秒

Shigeru Kan-no

最大手のDGがそうでしょう。最近スーパーで3ユーロで売る時代になりました。最近はドイッチュ・シャルプラッテンなども続いています。敷居の高い超高級品から誰でも気軽に買えて聴ける庶民の手になったとでも言うのでしょうか?それはそれでクラシック音楽家の危機ではなくて勝利でしょう。確かに大手は赤字に悩んでいますが、新興レーベルの勃興が後を絶たないですね。適度に儲けています。ある一握りの音楽家やレーベル・マネージメントだけが儲ける時代はもう過ぎました。

オーケストラやオペラとはもともと庶民の税金や受信料で大部分を養っていますから、その主役達がそれを利用して自分の利ざやをヤクザのように更に稼ぐとは言語道断です。彼らは出演の段階でもう法外なギャラを取っているのですね。それをまた放送権料とかCDの売り上げなどで2重・3重もべらぼうに儲ける必要はかなりおかしいです。もちろん才能はないわけではないのですが、ショパンコンクールといえどもその入賞は大半が運が作用します。もちろん審査は厳正の筈ですが、最後はどこでもいつも強制的に結局一人一票の多数決です。じゃないと絶対1位が決まらないのです。揉めないコンクールはまず存在しないですね。最後は好みの問題ですからねえ。ならば最終選考がそんなに差がないのならば結局誰が一番かわからないので全部CDに出させれば良いですね。お客は良いと思ったら買うでしょう。

実力を維持するにはやはりウィーンフィルのようにクラシックで充分儲けて現代物などを腕が落ちないようにただでもおおからこつこつと勉強してさらうしかありません。彼らは物凄いインテリの勉強家ですね。年に300晩の普通のオペラで足りないところろをいつも補っています。クラシックは彼らのオケだけで欧米で1000万、日本で2000万の出演料と言ってましたね。更にそれに指揮者やソリスト・マネージメント料がかかるりますが。

2009年10月06日 17時51分25秒

Az猫ロメ

2年ほど前に、元ビクターのチーフ・ディレクターの書いた『一枚のレコードに』という本が話題になりました。
 『レコード製作は芸術である』という考え方が、あることを初めて知ったものです!著名な音楽評論家が前書きを寄せていましたが、この問題で両者が「歩み寄る」ことは不可能でしたね。
 大手レコード製作会社が、クラシックレコード作りに商業上の限界を感じて、昔のような丁寧なレコード作りを放棄したことが、この本を読むとよく分ります。現代は「安く、品質をいかに落とさずに」レコードを作るかという「省エネ製作」の時代になったようです。
 クラシックに携わる多くの「音楽家」が豊かに安定した生活を送れるような時代が来るのだろうか?と考えると、「クラシックに民主主義はあり得ない」というW.レッグの名言が響いてきます。
 では「いかなる制度が」と聞くと、答えは書いてありませんが、当然、俺たちのやってきたことを見れば分るだろう。というわけで、「ドイツ第3帝国」のヒトラー流のナチズムだということになります。

 クラシック音楽界に戦後の国際連合を築くべきだと考えることは「妄想」なのだろうか。あるいは、今の国際オリンピック協会のような、商業主義に基ずくアスリート達の国際ショーを開催する組織を築くことは不可能なのだろうか?

 『金持ちと悪党は食うことと逃げることでは誰よりも手速し。
  いずれ市中引き回しの上、八つ裂きの刑にならざるはなし。』

 W.レッグの本を読むと、クラシック界の黄金期には大指揮者と大物プロデューサーは、この喩え通りの生き方をしていたことが分ります。どんなに否定しても、クラシック音楽界にはカラヤンのようなスーパー=スター(キリスト)がいなくてはならないことも事実のようです。
 昔は、その下に数多の音楽家や愛好家が「浜辺の真砂」のごとくひしめいていました。「地球温暖化」はこの環境を徐々に水没させていくように、私には思えます。Kan-noさんは「芸術は不滅だ!」と云われるようですが。

2009年10月07日 10時23分49秒

Shigeru Kan-no

『レコード製作は芸術である』いかにも日本的な発送ですね。あの漫画大臣と似ています。日本は何でもかんでも哲学になってしまうのですね。武士道のようなものです。本来は刀は人を殺すための道具、それがいつの間にか宗教になり哲学になってしまったのですね。

ええ、クラシックに民主主義はないです。それをやるとベルリン・フィルの常任指揮者のようになります。本来は民主主義でみんな平等なので誰も文句は言えないはずですが、あのオケの低迷は目も当てられませんね。衆愚政治ですね。民主主義とは芸術にとっては一種の合作に匹敵します。しかし芸術の本質は強烈な個性の表象ですから相矛盾するわけです。普通はオペラでもオケでも常任はそこの総監督・日本でいったら事務長の責任で決まりますね。それで数年契約してよかったら延長、悪かったら首ですね。音楽とはそういうものでしょう。もちろん収入は不安定です。でも普通は常に尻を叩かれていますから反って演奏の質が上がるのです。ロンドンやボンのオケは最近はその傾向ですね。人間って常にそういう生き物ですね。常に危機が訪れないと進化しない動物です。僕もそうです。周りに良かったねとちやほやされるととたんに練習しなくなりますね。当然演奏の質が下ります。WPはそれがきちんとわかっているということでしょう。もちろん音楽家であるということはどこでも大変な職業です。でもそれをみんなそれを覚悟してやっている筈だから絶対容易にはできない筈です。本当は趣味が一番なのですよ。

それでもCDの売り上げは一応安定しているのですよ。それでもって50年間は独占して売り上げることができますからねえ。でもそれが終わったらやはり庶民に返すのが筋でしょう。クラシックは我々の税金や受信料を常に70%を投入して音楽は作られますからねえ。音楽は本来の持ち主に返すのが自然です。カラヤンといえどもそうですね世、実はみんなの税金を70%以上を使って作った録音なのです。以上というのは当時のベルリンは東側に対抗するために西側のボンから違法なほどの膨大な税金を投入したそうです。当時はお互いに対立して危険な危機でしたがそれが反って演奏の質を上げました。BP, SKD, BSO, RSOBなどの超精密な音はその賜物です。カラヤンの商売の天才精が原因ではないのですよ。政治危機が演奏水準を上げたのです。カラヤンはそれを上手く利用するのが天才的だったのでしょう。だからただの名指揮者の範疇でしかない。

2009年10月07日 18時44分30秒

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