『京都新聞』に感謝
御先祖さまに関する情報があまりなかったのは
歴史自体がごく最近になって見直されたからなのだと思います。
昨日、たまたま『京都新聞』の記事を発見しました。
しかしながら、この記事自体が2003年3月5日付と
まだ記憶に新しい事件ですね。
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1/4、滋賀県守山市矢島町の自治会館前に、15代将軍の足利義昭の館「矢島御所」があったことを示す史跡碑が建てられ、除幕式を行った。足利義昭は、織田信長に擁立され、将軍となる前の1565年5月に矢島の少林寺に入室。後に建てられた「矢島御所」で翌年9月まで暮らした。(2003.3.5)
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これで自分が幼少より、織田信長の霊に襲われてきた事実が説明付きますし、
京都へ魘される日々も難なく理解できます。
滋賀県に『矢島御所』があった旨を知り、
霊的感覚だけではなく、足利=矢島家という事実を
歴史的に証明できるまでに至りました。
祖母の死が祖父の50回忌と重なったこと、
日蓮宗のお葬式がこの上なく素晴らしかったこと、
こんなにまで感動・感激を覚えるお葬式は
私自身生まれて初めて体験しました。
それにも深い意味があるのです。
調べてみましたら、下庄緑町という所に本長寺という
お寺があることがわかりました。
これは京都にある日蓮宗本国寺の末流だそうです。
当初、上庄の堤防沿いにあった真言宗の寂光寺の廃寺に
1738年立花藩の家臣、矢島重知(矢島秀行の3代目)の娘が
出家して尼となり、『慧照比丘』と称し、
本国寺日解僧正を招いて開祖とし、再建した寺なのです。
この矢島家の祖先は足利尊氏に仕え、
近江国野州郡を与えられ矢島郷に居住したことから『矢島』を姓としました。
1596年に恵照院は息子(矢島秀行の2代目)の矢島重成が
立花宗茂に仕えるため息子に伴われ柳川に来て
この地で逝去して『恵照院』となったのでしょう。
矢島重知の娘『慧照比丘』は
曽祖母にあたる『恵照院』の菩提を弔うために開祖したのです。
更に1742年に慧照比丘が死去した直後、
本山の本国寺の一字を取って現在の寺号の本長寺に改め
恵照院殿妙成日芳尼が就任したようです。
1751年に開祖の唯妙院日解が本山から来て住職に就任していたが、
1759年には尼さんの円寿院殿妙応日慶尼が就任。
1793年当時は無住職の寺で『代恵』という留守居の僧侶に守られ、
1804年『又玄院日真』から『泰翁院日行』と住職が就任しています。
しかし、江戸時代には無住職の時代が何世か続いたものとされています。
1924年に矢部川堤防拡張工事のため上庄から現在地に移転し、
平成18年で30世になり村越智研住職が就任、
現在で本長寺開山は258年になるそうです。
堂内の鬼子母神の祈願式典には多くの人々を呼び盛大に行われ、
移転前の大正時代の本長寺の敷地には
竹竿を組み合わせた垣とむしろで仕切られたお粗末な芝居小屋があり、
当時の瀬高の娯楽の中心地であったそうです。
おばあちゃんのお葬式がこの上なく素晴らしいものとなったのも、
こうやって御先祖様に守られているからなのでしょう。
この世の七不思議にこれまた感謝です。
裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:02/07 00:36 最終更新日:02/07 00:36
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