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近江 矢島館の謎

祖母が他界してからの御先祖様研究は絶えることを知らない。
曾祖母が島原の御姫様『矢島夏』であったことを頼りに
私の歴史的研鑚は始まった。
分かっていたことといえば、長崎で3本の指に入るお金持ちであったということ、
腰元付きで暮らしていたということ、
有田焼・伊万里焼の鍋島藩であったということ。

更に突き止めた情報は福岡は柳川城の立花宗茂が大層な京美人
矢島八千子を後妻に取っていたということ。
彼女が室町幕府第15代将軍、足利義昭の息子、矢島秀行の娘であり、
公家大納言菊亭晴季の孫娘であったということ。
東北地方の矢島氏は戦で滅亡しておりますので、
これで全ての説明が付きました。

そして、京都へまた行くこともあり更なる研鑚をしましたら、
永禄8年、滋賀県守山市矢島町に足利義昭自身が、
『矢島館』を立てていたことが明らかになりました。
あらゆる歴史書にも『矢島秀行は室町幕府最後の将軍、足利義昭の子であり、
その妻は公家の菊亭卿の娘であり、後に「恵照院」と称されている』
と書かれております。

『矢島館』は現在矢島町自治会館の敷地となっていて、
公民館前に石碑が建てられております。
これは永禄8年に奈良から逃れてきた足利義昭の為に
観音寺城主六角承禎の命によって築かれた館だそう、
義昭は土豪矢嶋越中守に庇護を受け、永禄9年2月還俗し、足利義秋と改名、
同年9月に西近江にて三好長逸の乱があり『矢嶋の館』を去り、
越前へと向かったと言います。

熱心な歴史研究家はその後、
足利義昭が広島界隈で密かに勢力を拡大していたとも言っております。
やはり、御先祖様は西へ向かったのですね。
また、最近になって京都の『等持院』が足利の菩提寺であることが分かりました。
足利義昭のお墓が正にそこにあります。

もう数百年も経っておりますので、誰も気に留めなくなり、
御先祖様もさぞかし寂しい想いをしているのでしょうね。
今回のツアーではきちんとお墓参りに行こうと思います。
京都・京都・京都、この霊的お導きに日々感謝致します。
『死人に口あり』、御先祖様はやはり大切です。

裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:02/07 00:34
2件のコメント
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下鷺 千翔
室町幕府第15代将軍、足利義昭の子孫でしたか。
わたしの祖先は遠く藤原鎌足だそうですが、くわしくは知りません。
02/11 19:40

下鷺 千翔さま、
コメント誠に有難う御座います。等持院へ行ってまいりました。その近くにある衣笠山がどうやら京都の霊が集まる山の一つのようです。藤原家も歴史に残っている家系ですね。まぁ、誰もがどこかで繋がっているのでしょうが、身近に感じれば感じるほど歴史的研鑚は楽しいものです。また色々とお教えくださいませ。

裕美・ルミィヤンツェヴァ
02/20 16:52
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