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気になる魅惑の美女アルマ・マーラー

エジプトの女王、クレオパトラと自分を足して2で割った現代版が
アルマ・マーラー=ヴェルフェル(1879-1964)かどうかは
とりあえず置いておいたとしても(笑)、
彼女がとにかく、気になる魅惑の美女であることに変わりはない。

ウィーンに生まれたアルマは有名な風景画家、
エミール・ヤーコプ・シントラーの娘、
幼い頃から著名な画家、音楽家、文学者たちに囲まれ芸術的な環境で育ちました。
慕っていた父親は不運にも彼女が13歳のときに腹膜炎で他界、
その後、母親はシントラーの弟子、ウィーン分離派の創設者の一人、
カール・モルと再婚、
その後、アルマは母と継父を嫌い、心を閉ざしてしまいますが、
一方では音楽の世界にのめり込み、
膨大なスコアを熱心に読み、真剣に作曲の勉強に取り組み始めます。
アルマは幼少よりピアノを習い、9歳で既に作曲、優れた音楽的才能を有し、
明晰な頭脳に加え、様々な芸術において多大なる関心を持っていました。

そして、アルマはカール・モルのサロンに集まる文化人たちと親交を持つようになり、
様々な影響を受けていきます。
しかしながら、文化人たちが魅了された理由は彼女の美しさにあり、
ブルク劇場の舞台監督、マックス・ブルクハルト、
画家グスタフ・クリムト、作曲家、アレクサンダー・ツェムリンスキーらは
指導者としてアルマに様々な影響を与えると同時に恋愛関係も持っておりました。

アルマは1895年にヨーゼフ・ラボールに、1900年からはツェムリンスキーに作曲を師事、
後者とは結婚を考えた程でしたが、
後にマーラーと出会ったことで人生大きく変わり、1902年にマーラーと結婚。

結婚直前にアルマはマーラーから
『私の音楽を貴女の音楽と考えることは不可能でしょうか』と言われたそう。
二人のうち作曲家の役割を担うのはあくまでもマーラー、
こうしてアルマはマーラーから作曲を禁じられてしまうのです。

アルマはこの要求を受け入れつつも決して許すことを覚えませんでした。
二人の結婚生活は勿論上手くいかず、アルマはしばしば情緒不安定になり、
飲酒癖がひどくなっていきました。
1910年にアルマは神経症の治療の為、療養に出掛けるが
そこでバウハウスの主宰となる建築家、ヴァルター・グロピウスと出会い、
関係を持つようになります。
この事はやがてマーラーの耳に入り、
彼自身フロイトの精神分析を受けるなどして夫婦間の関係修復を図りますが、
結局は無駄。
マーラーはアルマに一度は禁止した作曲を許し、彼女の作った歌曲を賞賛、
歌曲集の出版までしましたが、もはや手遅れ、
二人の関係は修復されることなく、
マーラーは自筆譜に悲痛な言葉を書き連ねることに・・・

マーラーの死後、アルマはグロピウスと結婚、
画家、オスカー・ココシュカ、作家、フランツ・ヴェルフェルとも関係を持ち、
グロピウスとは1920年に離婚、
その後暫くしてヴェルフェルと結婚するがナチの台頭によりアメリカに移住。
アルマはヴェルフェルの死後もそのままアメリカで暮らし、
有名な芸術家たちと愛の遍歴を重ねた伝説的美女として生涯を閉じます。

アルマ・マーラーの歌曲は17曲が現存していますが、
うち14曲は既に1910年、1915年、1924年に出版、2曲は2000年に公開、
1曲だけは未だ非公開状態。
彼女の歌曲はツェムリンスキーの影響を強く受け、
半音階的で目まぐるしい転調を特徴としています。
また、表現主義的で強い表出力を備え、
濃厚なロマンチシズムと官能性に満ちているそうです。

美しいアルマの写真は実に印象的、
神秘的なマーラーの音楽や煌びやかなクリムトの絵画が醸し出す世界に
ぴったりの雰囲気を彼女が持ち合わせていることを自ずと感じます。
どう生きようが、たかが人生、されど人生、ロマンスは必要不可欠、
愛と夢と音楽と知的空間の狭間で理性と知性を武器に戯れるのもそう悪くはない。

アルマは実に素敵な女性です。

裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:03/29 01:08

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