検索 ページトップ メッセージを送る 掲示板 ブログ(日記) お気に入りに追加 お友達一覧に登録 足利家と藤原家の謎 藤原氏は日本の古代から近世までの貴族で、天児屋命を祖と伝えています。 平安時代は本姓の藤原を称しましたが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、 家名である近衛、鷹司、九条、二条、一条などを名乗り、 公式文書以外では藤原とは名乗りませんでした。 今回ひょんなことから、藤原家に『藤原氏四家』というのがあることを認識、 首皇子が皇位に就き、不比等の男子、藤原四兄弟と長屋王ら反対派の対立が深まり、 729年に『長屋王の変』が起こりました。 これは四兄弟が異母妹、藤原光明子(天皇の妃)を 史上初の皇族以外出自の皇后にする為、長屋王を陥れた陰謀事件でした。 その後、藤原四兄弟は南・北・式・京の4家に分かれ、それぞれ藤原四家の祖となり、 731年役人達の投票によって、四兄弟全員が議政官に昇りました。 737年に天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死、 藤原氏の反対勢力が生じたが藤原仲麻呂により抑えられ、 その後の仲麻呂排斥クーデターも失敗に終わりました。 やがて政争や一族の反乱で平安時代前期には衰退、 代わって最も栄えたのは北家であったのです。 藤原氏の嫡流は不比等の長男、藤原武智麻呂を祖とする藤原南家説、 兄よりも出世が早かった次男、藤原房前を祖とする藤原北家説の両説があります。 当時の慣習として高官の嫡男が父親の存命中に高位に昇る事が憚られていた為、 当初は南家が藤原氏の嫡流であったと考えるのが妥当。 以後、江戸末期まで摂政関白は藤原北家系統に限られ、 それ以外で関白となったのは豊臣秀次ただ一人でした。 そして私は悟るのです。 足利家が藤原北家であることを・・・ しかしながら、その後の研鑽結果、 足利氏に源氏姓足利氏と藤原姓足利氏の2種類があると判明、 足利尊氏は源氏姓足利氏に属します。 それでも室町幕府最後の将軍、足利義昭の孫娘、矢島八千子は 恵照院(菊亭晴季の娘)と矢島秀行(足利義昭の息子)の娘であり、 立花宗茂の妻でした。 菊亭(今出川)晴季曾孫、菊亭卿の娘に当たりますので、 藤原北家閑院流、藤原姓足利氏になります。 いずれにしても両者足利家にたどり着くことがわかるのです。 因みに豊臣秀次は豊臣秀吉の姉、日秀と三好吉房の子であること、 立花壱岐が矢島隼人采女の実弟であることも明らかになりました。 これぞこの世の七不思議!!! 今日も一つお利口さんになりましたとさ。 めでたし、めでたし!!! 裕美・ルミィヤンツェヴァ 作成日:04/29 02:45 Muse運営について |