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ドヴォルザーク、リストの影響

このように音楽家としての栄光に踏み出したドヴォルザークだが、
その家庭は不幸に襲われた。
1877年8月に次女ルジェナが、
翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去ったのである。
彼らの冥福を祈り作曲されたのが、
ドヴォルザークの宗教作品の傑作
『スターバト・マーテル』であった。

『モラヴィア二重唱曲集』の出版で成功を得たジムロックは、
1878年にドヴォルザークに対して、
ブラームスのピアノ連弾の為の『ハンガリー舞曲集』に
匹敵するような『スラヴ舞曲集』の作曲を依頼した。

この依頼に応えて作曲された作品集は
『神々しい、この世ならぬ自然らしさ』(ベルリン国民新聞)
との絶賛を受け、
ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に広く知れわたった。

この頃のドヴォルザークは
リストの『ハンガリー狂詩曲』をモデルに
そのチェコ版を目指しており、
チェコの舞曲や民族色を前面に押し出した作品を多く作曲する。

また、この傾向は、
そうした作品を期待する出版者や
作曲依頼者の意向に沿ったものでもあった。

例えば、フィレンツェ弦楽四重奏団の
第1ヴァイオリニスト、ジャン・ベッカーは
『新しいスラヴ的な四重奏曲』を依頼し、
ドヴォルザークはこれに応えてチェコの民族舞曲や、
ウクライナ民謡『ドゥムカ』の形式を採り入れた
弦楽四重奏曲第10番(1879年)を作曲している。
『チェコ組曲』も同年の作品である。

ドヴォルザークはリストの影響も受けていたのですねぇ。
私の研鑽生活は今日も続きます。
今日も一つお利口さんになりましたとさ。
めでたし、めでたし!!!

裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:01/30 22:14

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