ユーザーID

Password


ホーム
検索

トップ
掲示板
お気に入りに追加
このコミュニティに参加

ドヴォルザークのその後

ニューヨークに戻ったドヴォルザークには再び激務が待っていた。
1894年4月には、ニューヨーク・フィルハーモニーの名誉会員に
推されるという栄誉を受けた。

一方、グノー、チャイコフスキー、
ハンス・フォン・ビューローといった優れた音楽家の訃報に触れ、
更には父親の病気を知り、1894年3月、
ドヴォルザークは敬虔な歌曲集『聖書の歌』を作曲している。

この年の夏は、秋には戻り契約を2年間延長する約束で、
5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った。
チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、
住民たちの心温まる歓迎を受け、
心から寛いだ休暇を送ることができた。

同年、10月ニューヨークに戻った彼は強烈なホームシックに襲われ
体調を崩してしまった。
その一方で、この頃サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が
1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、
ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつあった。
11月8日からチェロ協奏曲に着手し、
翌1895年2月9日にこれを完成させるがこれが限界だった。

ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、
周囲の説得にも関わらず、
4月16日にアメリカを去ったのである。

私の研鑽生活は今日も続きます。
今日も一つお利口さんになりましたとさ。
めでたし、めでたし!!!

裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:01/30 22:20

Muse運営について

Muse(c)2024