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ダブリン時代(1882年 - 1904年)

ジェイムズ・ジョイスは1882年にダブリンの南のラスガー
という富裕な地域で没落してゆく中流のカトリック家庭に、
10人兄弟の長男として生まれた
(他にも2人兄弟がいたが腸チフスで亡くなっている)。

母メアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓マリー)は
敬虔なカトリック信者で、父ジョン・スタニスロース・ジョイスは
コーク市出身で、小規模ながら塩とライムの製造業を営む、
声楽と冗談を好む陽気な男であった。

父ジョンと父方の祖父はいずれも裕福な家庭を築いた。
1887年にジョンはダブリン市役所の徴税人に任命され、
家族はブレイ郊外の新興住宅地へ引っ越した
(その後ジョイス家は経済的に困窮して幾度にもわたる引越しを
余儀なくされた為生家は現存せず、
ジェイムズ・ジョイス・センター、
ジェイムズ・ジョイス記念館はそれぞれ別の場所に建てられている)。

この頃ジョイスは犬に噛まれて生涯に亘る犬嫌いとなった。
他にジョイスの苦手なものとしては、
敬虔な叔母に「あれは神様がお怒りになっている印だよ」
と説明されて以来恐れるようになった雷雨などが知られている。

1891年、アイルランドの政治指導者で
父ジョンも熱烈に支持していた「王冠なき国王」
C・S・パーネルの死に際して、
当時9歳のジョイスは「ヒーリーよ、お前もか」
("Et Tu, Healy?")と題した詩を書いた
(ティモシー・ヒーリーはパーネルを裏切り政治生命を絶った人物)。

ジョンはこれを印刷し、
バチカン図書館にコピーを送りさえした。
同年11月、ジョンは破産宣告を受けて休職、
1893年には年金給付の上で解雇された。
この一件からジョンは酒浸りになり、
経済感覚の摩耗もあいまって一家は
貧困への道をたどりはじめることとなる。

ジョイスは1888年からキルデア州の全寮制学校
クロンゴウズ・ウッド・カレッジで教育を受けたが、
父の破産により学費を払えなくなった為
1892年には退校せざるをえなかった。

自宅やダブリンのノース・リッチモンド・ストリートにある
カトリック教区学校クリスチャン・ブラザーズ・スクールで暫く学んだ後、
1893年にダブリンでイエズス会の経営する
学校ベルベディア・カレッジに招聘されて籍を置く。
ジョイスが聖職者となることを期待しての招待であったが、
ジョイスは16歳のときにカトリックとしての信仰を
捨てることとなる(ただしトマス・アクィナスの哲学は
ジョイスの生涯を通じて強い影響を持ち続けた)。

英文学として読み漁ってきた本のうち
非常に素晴らしい出来栄えとして絶賛したものは
限ってアイルランド出身の作家ばかり。

ジェイムズ・ジョイスに限らず、ジョナサン・スウィフト、
ウィリアム・バトラー・イェイツ、
ジョージ・バーナード・ショー、サミュエル・ベケット、
オスカー・ワイルドなどなど、
その多くがノーベル文学賞を受賞しているが、
ウィリアム・バトラー・イェイツの詩や
オスカー・ワイルドの作品は全て原作を読んだものの、
衝撃的な感動を覚えるのはやはり
ジョージ・バーナード・ショーである。
この人は凄い、兎に角凄い!!!!

私の研鑽生活は今日も続きます。
今日も一つお利口さんになりましたとさ。
めでたし、めでたし!!!

裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:04/03 22:58

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