検索 トップ 掲示板 お気に入りに追加 このコミュニティに参加 フィデル・カストロとの親交 1954年には『エル・スペクタドル』紙の記者としてボゴタへ戻り、 翌、55年に教皇崩御を伝える為にローマへ飛ぶ。 ローマにて映画評論を本国へ送る傍ら、 「映画実験センター」の映画監督コースで学ぶ。 この体験によって、後年彼自身が映画監督を務めることにもなる。 しかし、同55年、自由党派『エル・エスペクタドル』紙は 当時の独裁者ロハス・ピニーリャの弾圧によって廃刊する。 これにより収入のなくなったガルシア=マルケスは、 安アパート「オテル・ド・フランス」で極貧生活を送ることになる。 ガルシア・マルケスはこの地で『大佐に手紙は来ない』を執筆する。 1957年、友人が編集長を務める、 ベネスエラの首都カラカスの雑誌『エリーテ』に ヨーロッパから記事を送り生活していた。 1958年に結婚するためコロンビアにいったん戻り、 カラカスに移り住む。 この時に使われた旅費は1955年に出版された 『落葉』によるものだった。 『落葉』は、マルケスがヨーロッパ滞在中に彼の友人が祖国で 『落葉』の原稿を見つけて、 マルケスに無断で出版社に持ち込んだ作品であった。 いわば偶然世に出た作品であった。 1959年キューバに渡りフィデル・カストロを知り、 キューバ革命成立とともに国営通信社 「プレンサ・ラティーナ」のボゴタ支局編集長となったが、 間もなく編集部の内部抗争に嫌気がさし辞職。 しかし、フィデル・カストロとの親交は続き、 2007年3月には病床のカストロを見舞った。 1961年にメキシコに渡り映画製作に携わる傍ら、 『大佐に手紙は来ない』を発表。 1962年に前年から書いていた『悪い時』と カラカス時代に書き溜めた短編集 『ママ・グランデの葬儀』を発表している。 ヨーロッパ方原稿を送って生活とは 中々いい暮らしですねぇ。 私の研鑽生活は今日も続きます。 今日も一つお利口さんになりましたとさ。 めでたし、めでたし!!! 裕美・ルミィヤンツェヴァ 作成日:04/06 22:25 Muse運営について |