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お弁当の謎@長崎

曾祖母矢島夏が『島原の御姫様」であったことを頼りに
祖母の死後、私の熱心な御先祖様研究は始まった。
矢島といえば東北は秋田の矢島藩を先ずは思い浮かべたが、
こちらは歴史上で滅びているばかりか、九州とはどうやら無縁、
親族の話をちらほら聞いているうちに矢島が鍋島藩であることが判明。

有田焼・伊万里焼で有名な佐賀県ならば長崎の直ぐお隣、
家系図をたどっていく上で納得いく親近感たるものを得ました。
数々の城や寺を研鑽した結果、矢島家が出てくるのは福岡県の柳川城、
日本のジュリアス。シーザーといわんばかりの立花宗茂率いた城である。

そして、立花宗茂の側室が京美人矢島八千子、
しかも室町幕府最後の将軍足利義昭の孫娘、私は興奮を隠しきれませんでした。
滋賀県に足利家の矢島御所があった旨、
足利義昭が奈良に1年間隠し住んでいた旨、
江戸時代に足利を名乗る者は一人もおらず
その末裔は矢島、島津、坂本、永山を名乗った旨などなど、
調べれば調べる程、面白い展開に・・・

その他にも足利を引き継ぐ家系には喜連川家があります。
豊臣秀吉が小田原攻めの際、鎌倉公方系古河公方(喜連川氏)を復興、
徳川家もこれを継承して足利氏宗家として扱い、
実質五千石の所に十万石の格を与え代々客将としておりました。
この系統は明治時代になってから喜連川姓を足利姓に戻しています。

また、柳川城の初代城主であった蒲池氏が
藤原家では最も栄えた藤原北家、藤原純友の末裔との伝承も、
矢島の母方、菊亭家(今出川家)がそもそも藤原北家ですので、
もしそうであればこちらにも通じる何かがあります。

先ず室町幕府最後の将軍足利義昭には
長男足利(高山)義尋(1572〜1605?)という子がいたとのこと、
奈良興福寺大乗院門跡を継ぎました。
私が生まれるちょうど400年前に将軍家の嗣子として誕生、
翌年に父義昭が織田信長により追放され、義尋は信長の人質になる破目に・・・
義昭が豊臣秀吉に帰京を許された際、義尋も大乗院の法嗣として入室、
義尋は大僧正に任じられるが、やがて還俗して足利高山と改名。
高山は二人の男子、常尊、義尊を儲け34歳で死去、
遺子はそれぞれ大僧正となり長命、
僧籍にあった為、子がなく足利将軍家の嫡宗は断絶とあるがこれは仮説。

また、南北朝時代に足利尊氏側で戦ったと言われている島津氏も
有力な戦国大名として筑後国で勢力を持っていた時期があり、
足利の子が島津を名乗ったことからこれまた興味深い接点、
しかも今上天皇の母方の祖母は島津忠義の七女倶子ですので、
島津家は現在の皇室との血縁もあるらしい。

現に西南戦争前、薩摩藩は鹿児島の高山に
足利家の末裔が暮らしていたという書物があったよう。
西南戦争のおり、薩摩軍の侍大将であった永山弥一郎が正にその人、
永山休二という親戚もいた他、その長男は捕らえられ北海道へ、
しかも永山弥一郎は幼少時代島津家の殿の遊び相手だったとか、
弥一郎の次男がゆくゆくは家督を継ぎ、
島津家に仕え今日に至っているのだそうです。

その家紋は足利家や今川家と同じ、丸に二本の線、女性にも別紋あり、
また、島津氏の『義』か、足利氏の『義』かは定かではないが
代々男子には『義』という字が付いているとのこと、
薩摩藩士になった永山義在(1575年4月15日〜1635年3月14日)が
足利義昭の息子という説は有力、島津家の食客として薩摩に身を置き、
千石を与えられ薩摩藩士永山某の娘婿となり、永山久兵衛(休兵衛)と改名、
しかし、これが高山の子、永山義尊(足利次男説)と同一人物という説も。

そして、1571年、織田信長による比叡山の焼き討ちの後、
明智光秀によって築かれた城、坂本城がありますが、
これは近江国志賀郡坂本(滋賀県大津市坂本)に位置。
足利家は京の町を焼かれた後、滋賀へ逃げておりますので、
その子が坂本を名乗ったのはこの土地名からかも分りません。
あの坂本龍馬でさえ、清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、
明智氏の末裔と言われています。
坂本姓の由来は正に本能寺の変以前に明智氏所領であった坂本、
現滋賀県大津市坂本にあるのです。
それともこれは後世の創作か?????

更に、足利常尊が足利三男説、西山義辰が足利義晴の四男説、
足利一色義喬(生没年不詳)長男説や四男説もあります。
足利一色義喬は一色藤長に養育され、その後近江坂本に住し(坂本義喬)、
子孫は会津保科家の客臣になったとのこと、
いずれにしても、矢島家説に加え
足利家の高山家説、島津家説、永山家説、坂本家説はどうやら有力のようです。

そして最近の新発見は御先祖矢島が
長崎の三大富豪にのし上げた理由がお弁当屋だったということ。
長崎は鎖国だった江戸時代、世界へ開かれた唯一の窓口、
そこで生まれたのがオランダ、中国(清)、
日本三ヶ国の料理が合わさった卓袱(しっぽく)料理。
もしかしてもしかするとこの謎の全ては
このお弁当にあるのかもしれません。

これぞこの世の七不思議!!!
日々が正に研鑽です。

裕美・ルミィヤンツェヴァ
作成日:05/03 03:44

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